民主統一 232号 1998/8/1発行

国家衰亡の危機に、政党と主権者はなにをなすべきか
自民延命への「背水の陣」・「総力戦」としての小渕政権をめぐる攻防を、
ホンモノの改革派総結集への媒介とせよ

「経済敗戦国の焼け跡」に、「救国」の一歩をふみ出せるか
小渕内閣およびポスト小渕をめぐる政治攻防の性格について

 参院選での惨敗を受けて、橋本首相が自民党総裁を辞任、替わって自民党総裁に選出された小淵氏が、首班指名を受けて新内閣が誕生した。
 小淵内閣は、「経済再生内閣」を自認し、「一両年の間に景気回復」と表明して「退路」を断った。小淵内閣は、自民党が政権党としての延命をかけた「背水の陣」での「総力戦」に取り組むことを、明確に示したものである。
 これほど祝福されない政権与党の新総裁(首相)も珍しい。国家的な危機の時代のリーダーシップについての疑念から、海外からは「冷めたピザ」と揶揄された。三人の総裁候補の中でも、国民の人気はズバ抜けて低い。だが自民党が直面している危機が、そんな「国民の人気」や「市場の期待」といったものだけで乗り切れるほど、甘いものではないとの判断である。
 戦後の自民党政権を支えてきた構造は、「日本型社会主義」ともいわれるような再分配システムである。ここでの利益配分−行政による「配慮」の構造と一体となった集票システムが、経済社会のラインに沿ってはりめぐらされていった。五十五年体制とは、この構造の中の「右・左」ということであり、自民党単独政権という上部構造の形式が瓦解した後は、その基礎の露呈であった(自社さ連立の本質)。
 この戦後社会の構造改革、すなわち自民党を政権党たらしめてきた基盤そのものを破壊、または分断するような「大胆な改革」に突き進むのか、それともこの基盤を守り抜くことで、政権への信頼を回復させるのか。
 今回の自民党の惨敗は、橋本政権の抜本的改革に対する「言行不一致」によるものと、「中途半端な改革」によって従来の支持基盤からの信頼を喪失したことによるものとの、複合相乗効果である。だからこそ、自らの旧来の基盤を解体する結果となりかねない抜本的構造改革に踏み込むよりも、まずは動揺している既存の基盤を固めることで、この危機に対処するという今回の自民党の選択は、むしろ自然なものと言っていい。
 だがこのような、五十五年体制の既得権構造に立脚し、これを守るという永田町内的危機意識からの「総力戦」で、今日のわが国が直面する危機−国家衰亡の危機を食いとめることができるのか。
 わが国をとりまぐ情勢は、一段と厳しくなっている。アメリカの格付け機関が、国としての日本の格下げを検討していることを発表し、為替レートは再び円安の「危険水域」に近づきつつある。失業率は史上最悪を更新し、経済全体のデフレ傾向はいっそう進んでいる。円安→元切り下げ→アジア経済危機の悪化→アメリカ経済の危機という最悪シナリオに対する警戒感は、アメリカ、中国をはじめとしてさらに高まっている。日本は世界恐慌の「戦犯」として、「経済敗戦」国として、再び国際管理体制下に置かれかねない。
 まさに戦争に匹敵するほどの、国益をめぐる攻防の中での「国家衰亡の危機」なのである。だが永田町政治−五十五年体制の分配システムに支持基盤をおいているかぎりは、国家衰亡の危機とははるか隔たった「延命の危機」でしかない。
 今回の参院選は、このような「国家衰亡の危機」とも言うべき客観情勢を背景として、永田町の枠内の「政治」−五十五年体制の社会的基礎の上に咲いた「左右」の分配政治の枠そのものを、「市場」と「世論」が吹き飛ばしたのである。この「突風」が、惨敗した自民党にも、「勝利」した民主党にも、「危機」をもたらしている。
 本号掲載の橋爪・東工大教授、ならびに飯尾・政策研究大学院大学助教授の分析にもあるように、永田町政治−五十五年体制の分配システムに立脚しているかぎり、政権与党の敗北は免れず、野党には可能性がないということになる。
 ここに決定的に欠落しているのは、グローバル化社会における構造改革の視点である。わが国の敗戦とはなによりも、グローバル化時代の相互依存性に立脚した新たな国益の貫徹形態(地球益と国益をむすびつける)を獲得できなかったということであり、「日本売り」の原因は、アジアの安定−共通の利益を国益とする政策判断も決断もできないことへの不信にある。
 この意味がまったく分かっていない、というのが、「市場」と「世論」の評価であり、各社の世論調査を見ても、今日のグローバル社会や「市場」という意味が生活では前提になっている層(「経済自立人」・飯尾助教授)になればなるほど、小淵政権への支持は低くなり、反対に既得権構造(「行政依存人」・同前)になればなるほど高くなっている。日本社会や企業が、国際社会での自立・自己責任をクリアできていなかった時には、「護送船団」方式・行政依存構造が力をもっていた。しかし社会の一角に、グローバル社会における自立・自己責任の主体が生まれ始めるや、もはや後戻りはできない。
 日本社会の現実の構造変化は、すでにこのようにすすんでいる。既得権構造に立脚しているかぎり、投票率は四割を越えることはない。その枠にとどまる限り、民主党の「勝利」は八九年の社会党の二の舞いとなる。
 経済再生−国家衰亡の危機を食いとめるためには、グローバル時代の国益の貫徹形態を鮮明にし、そのメッセージによって「市場」に働きかけ、経済自立人の「世論」をつくりだしていかなければならない。これが小淵政権、およびポスト小淵をめぐる攻防の性格である。

改革の大衆的基盤をつくり出すことなしに、ホンモノの改革とそのための政界再編はできない

 史上最低の投票率が予想されていた参院選の枠組みを吹き飛ばしたのは、間違いなく、日本が世界恐慌の引き金を引いたとされ、経済敗戦国の焼け跡と化すというシナリオが現実味を帯びはじめるという「国家衰亡の危機」の情勢と、それに反応しはじめた有権者の一部の覚醒である。
 それは少なくとも、国民の中に改革の意思はあるということだけは示さなければならないという責任感であり、「信頼できる政党がない」と言って、これ以上「他人のせい」にするわけにはいかないところまで、事態はきているのだという自覚である。
 だからこそ次に問われるのは、小淵政権、およびポスト小淵をめぐる攻防の中で、「投票するに価する政治家・政党」への糸口をどうつくるのか、ということである。「ほかによい政党がない」という投票行動を、もう一度くり返せるほど、現在のわが国が置かれた状況は、甘いものではない。
 飯尾潤・政策研究大学院大学助教授によれば、これまでの日本の政治再編過程をゆがめてきたのは、「あせり」と「人任せ」であったという。 
 自民党一党支配が崩壊した後に露呈するのは、ポスト五十五年体制の「更地」ではなく、五十五年体制を支えてきた土台、基礎の全面化である。つまり「日本型社会主義」の再分配システム、そこにぶらさがる経済社会の構造とその人間形成の本質が、より露骨な形で表れてくるのである。
 社会の底なしとも思えるような崩壊と国家衰亡の危機が同時進行し、国益や国家戦略にかかわる政策をめぐって、政治が機能停止・意思喪失に陥り、官邸から一国民までの危機管理能力の完全欠除が露呈した。この危機を先送りし、見ないようにしてきたのが、自社さ連立だったということである。
 これほどの危機に陥ったにもかかわらず、自社さ連立構造からはついに、国家にかかわる責任意識の主体性は右からも左からも生まれなかった。連立当初、国民政党への脱皮−党改革を公約していた自民党は、連立によって政権に復帰した後、橋本政権下で単独過半数を獲得するようになってからは、「族議員」と業界型選挙の全面復活へと先祖返りし、参院選では低投票率を狙う選挙戦術をとるに至った。
 このような五十五年体制の基礎の露呈を直視し、その基礎そのものの抜本的変革のエネルギーを呼び起こし、いかに求心できるかが、改革の政党には問われた。つまり改革をかかげる政党は、その大衆的支持基盤を自力でどうつくるのか(できあいの支持基盤−五十五年体制内の支持基盤を、そのまま受け取って、ホンモノの改革の支持基盤をつくることはできない)ということであり、改革を望む主権者は、改革の信念と行動が一致するホンモノの政治家・政党をどうつくるのか、ということである。ここでの「あせり」と「人任せ」の問題なのである。
 今回の参院選が明らかにしたことは、五十五年体制の既得権構造の「外側」に、既得権構造からは自立した、改革の支持基盤たる有権者の構造が「手付かず」で広がっていることである。ここに改革の政党の支持基盤をつくることを抜きにして、次の政界再編はありえない。ここで「あせり」と「人任せ」に終止符をうつことが問われている。

国家衰亡の危機をくいとめる、本格的な救国政権にむけた改革派の総結集構造をつくりあげるための政界再編を

 「緩やかな改革」にしろ、「大胆な改革」にしろ、当面の危機を食いとめることなしには、次の可能性は断たれる。これができるのかどうか。少なくとも、橋本政権の「先送り」「小出し」「後手後手」ではそれはできない、というのが「市場」と「世論」の結論だった。だから本来であれば、自民党の支持基盤であるはずの、「緩やかな改革」期待層からも、大量の離反が生じているのである。小淵政権が、五十五年体制−日本型社会主義の構造に立脚した「守り」の姿勢に立つなら、当面の危機をしのぐことさえできない。
 小淵政権をめぐる政治攻防を、当面の危機回避へと牽引することができるのは、本格的な改革派の総結集構造をつくりだすというスタンス以外にはない。つまり「大胆な改革」推進派と、「緩やかな改革」期待派との間での、まともな構造改革のための連合をつくるということである。そのためには、それぞれの政治勢力が、活力なきぶらさがり構造を支持基盤から一掃すること、そして行政依存を必要としなくなった、自己責任の主体構造を中軸にすえることが必要である。
 参院では過半数割れの自民党は、ブリッジバンクなどの重要政策では、民主党との協議・妥協は不可欠であるとして、是々非々の枠をねらっている。一方で自由党と共産党は、小淵政権を解散−総選挙に追い込むという立場から、政府・自民党に対して「ものわかりよくなりがちな」民主党を牽制するスタンスを取ろうとしている。
 日本を破産させるということでない限り、小淵政権を解散−総選挙に追い込むというスタンスは、小淵政権ではなぜ当面の危機を回避できないのか、それができる政権構造・構想とは何かをめぐるものとならざるをえない。共産党が、こうした「現実政治」の舞台の上で「ふつうの政党」(よりましな資本主義、健全な市場をめざす)に脱皮できる可能性がまったくない、と言い切れるだろうか。
 既得権構造の一角(活力なきぶらさがり構造)を切り捨てる決断なくしては、経済再生はおろか、当面の危機回避すらできないのである。「市場」も「世論」も、そちらのほうがすでに多数を占めていることを示している。ここでまず、国家衰亡の危機を食いとめる政治・政権構造をつくりあげることができるのかどうか。そのための本格的な改革派の総結集構造を、いかにしてつくりだすのか。それが小淵政権およびポスト小淵をめぐる攻防の成否である。そしてこの新しい基盤の上に、改革の方向や手法をめぐる次の政治的分岐が形成されていく。
 国家の衰退は不可避である。問題はそれにいかに対処するのか、その「国家再生のノウハウ」である。「大衆民主主義のもとでの、国の大きな改革にいて、どのように合意の形成を図り、国民の生活に考慮を払いながら、それでいて国際社会の中での国全体のサバイバルをいかに確保してゆくか」ということであり、結局は「改革論の大衆的な基盤をどう確保するか」という問題である。(引用は中西輝政・京大教授「国まさに滅びんとす」)
 「経済敗戦国の焼け跡」を意識せざるをえないという、グローバル時代の有権者の覚醒は、確かに始まった。これを後戻りさせることはできない。改革の挫折は、結局のところ改革政党とその支持基盤をつくる戦いにおける「あせり」と「人任せ」として総括−自己切開する以外にはない。「ほかによい政党がない」という退路は、断たれているのである。
 グローバル化社会における国家衰亡の危機を食いとめる「救国」の戦いは、地球益と国益を結びつける責任意識、開かれたナショナル・アイデンティティーの獲得によってこそ可能となる。開始されたグローバル時代の有権者の覚醒を、救国・改革派総結集構造の推進力へと高め、ホンモノの改革の政党建設の一歩とすべく、「がんばろう!日本!! 国家衰亡の危機、政治家と主権者はどうあるべきか 10・10集会」に結集を。