民主統一 234号 1998/10/1発行

国家衰亡の危機、政党と主権者はどうあるべきか
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自民党政治の国民的基盤の歴史的崩壊と、有権者の意識改革の始動
国家衰亡の危機という情勢は、われわれに何を教えつつあるのか

 金融再生関連法案をめぐる与野党の協議は、党首会談での「合意」後も迷走を続けた挙げ句、長銀系ノンバンクへの債権放棄はしないという野中官房長官の発言と、日本リースの会社更生法申請を背景に、一応の決着を見た。
 政府・与党案が取り下げられ、野党案を軸にした修正案が作成されたという意味で、またしたがって官僚主導ではなく、議員が自ら立案した法案が、与野党政治家の協議・修正を経て成立する見通しとなったという点で、画期的なことである。
 この中で目立ったのは、党幹部や閣僚に判断を預ける「丸投げ」と、野党案の「丸のみ」という小渕政権の手法である。それは55年体制という政治システムがその歴史的な存在意義を失った後に、“むきだし”になった土台の本質露呈であり、「政権につくこと」「政権党でありつづけること」だけを目的として成り立っている世界である。
 一方で野党には、こうした「自民党政治」の枠内での「政権交代」「政権担当能力」という立場にとどまるのか、それとも部分的にせよ、こうした「自民党政治」を打破する一歩を踏み出すのかが問われている。
 自由党は、政権党たるものは自らの政策を自信をもって実行すべきであり、その判断は有権者が行うというのが民主主義の基本である以上、「緊急かつ重要課題」と言いつつ長銀処理ならびに金融再生法案に手間取っているのは、政権をかける決意がないだけのことである、「みんなで渡れば恐くない」的な政権に国を任せられるのか、との姿勢で一貫していた。
 参院選後に展開されつつあるのは、「自民対反自民」というレベルでは測れない、55年体制の抜本的改革をめぐる本質的な分岐である。
 グローバル市場を背景とした金融危機、そして戦後最悪とも言うべき経済危機が、「国家衰亡の危機」という有権者の皮膚感覚を生み出した。これが参院選に表れた有権者の覚醒であった。
 経済は生活の脈拍である。金融改革をめぐる争点は、護送船団方式に象徴される日本型社会主義の経済社会を延命させるのか、それとも自立・自己責任を原則とする経済社会へと変革するのかということを「わかりやすく」提示し、政党の政策的位置をはかる軸を形成しつつある。
 システムの機能不全が、国益の多大な損失−国家的危機に直結するという状況のなかで、この争点は、いかなる経済社会をつくるのか、いかなる国をつくるのかといった、トータルな政治的対決軸へと発展する可能性をもったのである。
 日本型社会主義ともいうべき経済社会の主体形成(有権者意識)からは、「国家衰亡の危機」という感性はうまれようはずもない。経済社会における自立・自己責任の実現は、自立した有権者−主権在民の物質的基礎である。
 参院選における自民党の敗北は一過性のものではなく、歴史的構造的なものであることは、すでにいろいろ分析されているとおりである(例えば『民主統一』232号、飯尾・橋爪教授の分析など)。一言でいえばそれは「自民党には国を任せることはできない」という感性であり、「自民党では亡国の道だ」という皮膚感覚である。金融−経済政策をめぐる分岐−対立軸が、国家衰亡の危機という歴史的情勢を背景として、社会のありよう・国のありようをめぐる政党再編の対立軸へと発展・転化しつつある。
 言い換えれば、「保革」や「自民対反自民」といった55年体制的対立軸とその国民的基盤(有権者の意識)そのものを再編する、政党再編(政界再編ではなく)の諸条件は、このようにして準備されてきたということである。
 大獄秀夫・京都大学教授は、新たな政党再編の対立軸によって、有権者レベルで長い歴史をもつ対立軸を再編することが、いかに容易でないのかを、次のように述べている(レヴァイアサン・98夏臨時増刊)。
 「議員間の再編たる『政界再編』に対応して、新たに結成された新党を新たな政策的対立軸によって認知することは、一般の有権者にとっては至難の作業である。そもそも新党を政策的な立場によって認知することは、一般の有権者にとっては難しい。それができるためには、政策争点についての知識とそれに対応する政党の政策プログラムおよびその実現能力についての認知をもつことが必要だからである。新党が従来の保革の軸で自らの政策的位置を表現していたら、まだしもそれは可能であったかもしれない。しかし、これまで述べたように、両党は(細川、小沢氏の新党は−引用者)、新たな争点を全面に打ち出そうとしていたのである。しかもそれは、国家エリートの国際的認識を基礎としたものであり、有権者にとっては、必ずしも緊急の争点とは考えられてはいなかった争点であった」
 政党再編とは、時代の転換、歴史的な枠組みの変動に対応するために、国家のあり方や国民の意識を変化させたり、また新たな国家目標への国民合意を再形成するために必要とされるものである。日本では歴史的にも、国際関係の変動を受けてこうした政治の再編が試みられてきた。なおかつ、政党文明が定着しているヨーロッパでは、それは政党間のあるいは政党内部での改革−綱領の脱皮や支持基盤の変革など−として、「わかりやすい」形で進行するが、日本では有権者の意識とその物質的な基礎の、歴史的構造的変化をとらえつくすということなしには、表層的な「政界再編」(議員の所属替え)としかとらえることのできないような経過をたどる(たどってきた)。
 まさに国家衰亡の危機という情勢は、「第三次世界大戦」と称されるような金融のグローバル市場でのわが国の敗北を契機としたものであり、金融改革をめぐる争点は、生活の実感をともなって、いかなる経済社会−いかなる民主主義をつくるのかという、改革の戦略論議へと発展しつつあるのである。
 だからこそ一方で、自民党政治の基盤は、もはや「はだか」の利権・ぶらさがり構造でしかなくなったこと、したがって自民党を国民政党という枠ではもはや語れないことが明らかになっている。55年体制の国民的基盤の中核部分からは、国家的危機を「他人事」として追認したり、怒りや憤りの感情がともなわない評論はうまれても、有権者としての覚醒は生まれなかったということなのである。
 小渕政権をめぐる攻防は、政治を利害関係から判断するという世界での政権をめぐる駆け引きにひきずられるか、それとも国のありようをめぐる本格的な政治再編−55年体制打破への一歩を踏み出すのかという性質になりつつある。ここから、国を任せるに足るだけの改革派の総結集への糸口をつくりだしていかねばならない。

国家再生への糸口をひらく、改革派の総結集構造を

 国家が国家たる要件は、
 1.国土および国民の生命・  
   財産をいかに防衛するか、
 1.国の富を生み出す源泉
   をいかに確保するか、
 1.国民生活の安全と安心
   をいかに確保するか、
 ということになるだろう。
 いかなる改革であれ、このような国家の基本的な要件を維持し、新しい時代条件のなかでいかに機能させていくのかということでなければならない。政治の責任は、まさにここにある。しかし、ここ数年の「改革」は、これを後退させ、あるいはマヒさせる結果であったと言わなければならない。政治の機能停止、脳死状態と言われる所以であり、経済敗戦という事態は、こうした国家の要件を維持しうる政治・政党をいかにしてつくるのかという課題を、有権者自身に提起したのである。
 現代の政治は、市場と民意に大きく左右されざるを得ない。民意という意味を、前章で述べたような有権者の意識とその物質的基礎の歴史的構造的変化をとらえ、次の時代にむけて再編するということからとらえなければ、不断にポピュリズム(大衆迎合主義)に陥ることになる。
 歴史的な改革の論議が大衆的な基盤を獲得できず、ポピュリズムに押し流されることのもたらす悲劇的な結果は、今世紀前半のイギリスの衰亡(『大英帝国衰亡史』中西輝政・京大教授)にも明らかであり、経済敗戦ともいうべき状況にいたった今日のわが国への重要な教訓である。
 そして市場、とりわけ今日のようなグローバル・マーケットの時代に、時には数時間単位での利益を求めて、巨額の富が国境を越えて移動する市場に追従していては、国益−国富を守ることはできない。橋本政権の失政とはこの問題である。国家は「百年の大計」であり、その目的から市場をいかに「つかいこなすか」ということに、わが国は敗北したにほかならない。
 いまや世界の関心は、アジアや日本発の金融恐慌からいかにして身を守るのかというところから、グローバル化した金融の崩壊を防ぐシステムづくりというところに移りつつある。経済のグローバル化で「一人勝ち」したかに見えたアメリカの、足下からのヘッジファンドの危機が、アメリカ自身にも「新しいルールとシステム」の必要性を呼びかけさせている。冷戦後のグローバル化の段階から次の段階へ、舞台は移りつつある。
 このような中で、ようやく見え始めてきた、国家的な危機と再生をめぐる政治再編の軸をどのようにあみあげ、改革派の総結集構造をつくりあげていくか。 
 国家の安全保障
 国家の安全保障とは、生存という目標だけにつきるものではない。守るべき共通の価値や社会の安定のためには力の裏打ちが必要だということであり、戦後の「平和と民主主義」に根本的に欠落していた視点である。
 同時に、安全保障をめぐる歴史環境は大きく変化した。脅威の性質は特定の「敵国」を意味しなくなりつつあるし、一国の安全はますます多国間の協調によって維持されるようになりつつあり、旧来の同盟や各国の独自の軍事力はそれとの補完関係として位置付けられつつある。
 これらの歴史的な環境変化は、戦後のわが国の日米安保をめぐるディレンマを解く条件を与えつつある。そのポイントは「集団的自衛権」である。これを独自防衛と集団的安全保障を統合する環としていく鍵は、日米安保の運用の転換−東アジア安定のための公共戝という位置付けを実質化していくことにある。言い換えれば、一国の安全と生存を国際的な協調の中に委ねるという憲法前文の精神を、今日的な時代環境の中で実現していくための諸問題に、本格的に取り組まねばならないということであり、それを「阻んできた」旧い対立軸の基盤が再編されつつある情勢が、それを可能にしているのである。
 そのことに対する「思考停止」は、日本がアメリカの51番目の州であるというのに等しいような日米安保関係に帰結することになる。
 国富の源泉
 国富の源泉たるリーディング・インダストリーの育成は、国民生活にとっても、またアジアおよび世界経済に対するわが国の役割からしても、必要不可欠のものである。その場合にはやはり、歴史的に見ても「モノづくり」が軸になるであろう。日本型社会主義のシステムが改革されねばならないのは、まさに「モノづくり」の創造的発展を阻んできたからにほかならない。
 国際優良株と言われるような企業は、政府の保護や指導に頼ってその地位を築いたのではない。国民経済を支えている地域の地場産業や起業家に共通するのは「政府はジャマさえしてくれなければいい(保護してもらおうとは思わない)」ということである。反対に、規制と保護に甘んじてきたところでは、不良債権を抱えて「公的資金」にますます頼ろうという事態である。どちらに改革の基盤を置くべきか、どちらの基盤にたって改革の政策を編み上げるべきかは明瞭である。
 「モノづくり」を創造的に発展しうるためにこそ、金融改革が必要なのであり(国民資産の運用に外資が参入しやすくするためではなく、意欲的な起業家が資金を集めやすくするために)、そのために規制緩和が必要であり、教育改革が必要(横並びではなく、各分野における創造的な人材の育成)なのである。
 そして国際市場で勝負しうるような「モノづくり」のためにこそ、デファクト・スタンダードが必要であるのと同時に、地域社会や共同体に根づいた「モノづくり」の基礎をしっかりと確保しなければならない。根のない巨木は簡単に風で倒れる。国民の必要最小限の食い扶持を自力で賄うことを「忘れた」経済大国がどうなるか、われわれは経験した。
 国民の安心と安全
 国民の安心と安全を確保するということは、国家が国民の保護者となることを意味しない。日本型社会主義のシステムは、社会共同体の活力を疲弊させ、多大なぶらさがり構造をうみだした。そしてそれを支えきれなくなった結果、システムの破綻に対する不安を増大させている。むしろ反対に、国家のなしうることは少なくすべきである。
 グローバル市場の時代の社会政策とは、国際競争には乗らない、しかし社会の維持と発展にとって不可欠なさまざま有用労働、価値を交換する社会的な市場を、社会自身の内生的秩序でもって形成しうるようにサポートしていくことである。その一例がNPO(非営利事業)である。効率や利潤によってだけでは測れない社会的価値を、市場に乗せていく仕組みである。
 これは「小さな政府か大きな政府か」という旧い対立軸を、その国民的基盤から再編する軸である。その現実的条件は「経済自立人」対「行政依存人」というような形で表れはじめている。
 少子・高齢化の中では、ますますこうした市場は拡大するだろう。環境というような軸も、一方ではグローバル市場における外生的な信用秩序として(例えばISO 14000のような)必要であると同時に、広範な社会的市場によっても支えられなければならない問題であるだろう。
 このようにして、国家的な危機と再生をめぐる政治争点を、旧来の対立軸をその国民的基盤とともに再編しうる軸としてあみあげていくことによって、国を任せるに足りると思われる、政権交代可能な新しい政党構造への糸口を開いていくこと、そのために小渕政権および次期総選挙や統一地方選などの舞台を使い切っていくことである。
 10・10シンポジウムをそのような一歩とするべく、多数のご参加を!