民主統一 235号 1998/11/1発行

肚(はら)を据えよ!
国家衰亡の危機をくい止める一歩一歩を!

「国家衰亡の危機、政党と主権者はどうあるべきか」を正面から問う
−10・10シンポジウム、700名で開催−

「がんばろう! 日本!! 10・10シンポジウム」は、「国家衰亡の危機、政党と主権者はどうあるべきか」を正面から問うて開催され、第一部講演、第二部パネルディスカッションに、のべ七百名が参加した。
 基調から始まり、講演、パネルディスカッションに一貫して通底していたのは、自らの社会と国家の命運を切り開かんとする覚悟と矜持であり、それを有権者・国民に問うということであった。
 「衰退論」を語った中西・京大教授は、今世紀初頭の英国史に触れて、史上まれに見る右肩上がりの時代に肥大化した中産階級が、自らの運命を切り開く活力を見失うところからの退廃が、改革論をポピュリズムの波によって押し流した結果、英国と国民は二度の大戦と大恐慌、そして戦後まで続くサバイバルの危機にあえぐことになったと述べ、「大恐慌時代、教会の慈善スープに列をなした失業者たちの親の世代は、未曾有のグルメブームの世代であった」と警告した。
 パネルディスカッションでは、自己責任原則で政治活動を展開している議員がそれぞれ、「改革とは旧いものの破壊であり、痛みを伴ってでも手術をしなければというまでの危機意識が、国民にどこまであるか」と問い、橋爪・東工大教授は「国民は政治家の職責を尊敬すべし」と一喝した。
 国家衰亡の危機という歴史的な情勢は、ある人々を愚鈍にし、うちひしぐが、ある人々を啓発し、鍛え上げる。「第二の敗戦」とは「国としての統治にかかわる知恵と力が、他国に太刀打ちできないものでしかなかった」ことにほかならない(基調)。
 自民党政治と称される五十五年体制は、その国民的基盤の歴史的構造的崩壊とともに、政党助成金問題や金融、外交、安保などの緊急課題に対する「統治不能」「自己崩壊」としても、本格的にメルトダウンし始めている。ここから「統治や政党、国家にかかわることをいっさい考えてこなかった五十年間」の退廃とツケに「突き当たり」、「やはり日本では改革などできない」と嘆くだけなのか、それともこの現状そのものを打開するエネルギーと覚悟を、実践的に蓄積するのかが問われてくる。
 10・10シンポジウムはこうした意味でも、「自らの社会の命運を冷徹に見通しつつ、それに対して一定の責任を感ずることのできる」主権者と政治家・政党を創りあげるための、戦略的下準備活動を集大成するとともに、新たな実践的一歩への糸口を提起した。まさに「平成日本、挫折の十年間」を新たな一歩に転じることが問われている。

日本が日本であり続けるために、何をなすべきか
−アメリカニズムの危機とわが国の試練−

 10・10シンポジウムの基調は、わが国の「第二の敗戦」をグローバル市場に敗けたというのはあまりにも皮相的であり、この間の危機が教えていることは、「よい市場」には「よい統治」が必要だということであり、この統治活動の領域における(冷戦後の緒戦における)敗北であること、その「敗北の教訓」をもって、すでに開始されつつある「次の戦場」に参画できるのかと問うている。
 旧ソ連崩壊後の世界には、アメリカによる一極覇権と多極化という二つのベクトルが働いてきた。経済の分野でいえば、基軸通貨としてのドルによるグローバル市場化と地域経済圈の形成であり、軍事でいえばアメリカのヘゲモニーによる核管理(NPTなど)と地域安保システムの試みである。
 だが、九〇年代のアメリカを覇権国たらしめた金融市場のグローバル化は、アジアの通貨危機にはじまった一連の世界経済危機によって、新たな局面を迎えている。冷戦時代に軍事目的で開発され他を圧倒するアメリカのハイテクは、冷戦崩壊を前後して金融技術へと転化し、ヘッジファンドに代表されるような金融技術大国として、ソ連崩壊後の「一つの世界」「単一の市場」を席巻した。90年代のアメリカは、モノづくり国家からマネーゲーム国家へと比重を移したのであり、軍産複合体にならって、「ウォール街ー財務省複合体」(ジャグディシュ・バグワティ コロンビア大学教授)ともいわれる新たなパワーエリートが、「ウォール街にとって良いことは世界にとっても良いこと」という神話(同教授)の下に、金融市場のグローバル化を推進してきた。
 しかしこの一極支配の構造が、今、危機に瀕している。金融投機に支えられた「成長」はしょせんバブルであり、グローバル市場という“怪物”を制御できない恐怖が、アメリカ自身を襲い始めている。
 いまや問われているのは、経済の金融化、金融市場のグローバル化を調整できる「よい統治」であり、そのことが各国においても、地域協力においても、そしてグローバルな規模でも求められている。これは明らかに、市場に対する政治の優位である。
 その主戦場は、いうまでもなくアジア、それも東アジアであり、日本、アメリカ、中国の関係である。ここで、「緒戦での敗北の教訓」をいかに語れるのかが問われている。不良債権の処理も金融システムの健全化も、景気対策も、このようなことを視野に入れていかなければ、「敗北の教訓を語る」どころか、「複合体の生き残りを保証し、その地位の向上を促す役割を演じる上で頂点に立たされているIMFとその金融支援策」(バクワティ教授)に、ただカネをつぎこむ役回りを割り当てられることになる。
 日本が日本であり続けるためには、「投機資本主義」や「他人を騙したり、出し抜いたりすることを価値とするような」「資本主義の構造的危機」(10・10シンポジウム 平野氏講演)を克服する構造改革を、アジアの構造改革とリンクさせていく戦略が不可欠なのである。金大中・韓国大統領の訪日を、真の意味で日韓の新たなパートナーシップ、信頼構築の入り口となしえるかは、ここで決せられる。
 一方で、NPTに代表されるようなアメリカのヘゲモニーによる核管理体制は、北朝鮮の核開発疑惑とミサイル開発、そしてインド、パキスタンの核実験によって、これまた破綻の危機に直面している。それらへの対抗措置として、TMD構想が浮上しているが、ヨーロッパのような地域安保のシステムが確立していないアジアでは、それは必然的に冷戦時代以上に「アメリカの軍事力に全てを委ねる」ことを意味し、中国の位置付けや関係はさらに厳しいものなる。だからこそ、日本が日本であり続けるために、自己責任と自己決定としての「集団的自衛権」の問題をはっきりしなければ、冷戦時代以上に米国に従属することになりかねないというのである。
 アメリカニズムの危機は、必然的に次の世界システムをどうするかに直結しており、とくにドルに対する相対的独自性を確保し、地域安保体制を曲がりなりにも確立してきたヨーロッパに比して、アジアではそれが緊要の問題になっている。金大中・韓国大統領の訪日を皮切りとする、今秋の外交日程の本質的な意味は、ここにある。
 くり返せば、これは市場に対する政治の優位であり、統治の知恵と力の問題であり、だからこそ政党政治こそが問われるのである。
 当面、この苦境を脱する“特効薬”はありえない。経済の低迷はなお続くであろう。問題はその中で、欲望民主主義に慣れ親しんできた国民に、衰退を直視しうる「肝力」がどこまでうまれるか、そして統治や国家に係わることを一切考えてこなかったツケの「底なし沼」的全面露呈に突き当たるだけの「理性」なのか、ここでこそホンモノの政治ー国家再生のノウハウを、「教科書」も「先生」もなしに自分の力で実践的に学んでいくのかが問われるのである。
 歴史的な変革は「十年一日」のごとくである。平成日本の「惰眠と先送り」の十年間は、はじめて衰退を意識したとたんに「意思を失う」が、「挫折の十年」を自己切開できる人は、嵐の時代に啓発され、鍛え上げられる。

◆昭和十年代に日本で暮らしたドイツ人哲学者デュルケムは『肚ー人間の重心』で次のように書いている。
「日本人は肚の力を信じている。父親は子どもに、その子が何かうまくいきそうにないとき、へこたれそうになったときに『肚、肚』と言い聞かせる。この言葉は『しっかりしろ』という以外の何かを意味し、かつ影響力がある」と。
 日本文化で、「腰」は心身の粘り強さと持続する集中力を表し、その腰を基盤として深い呼吸によって練られたものが肚であった。
(斉藤孝・明治大学助教授/10・5朝日新聞)