民主統一 241号 1999/5/1発行

時代が潮目が変わり始めた
変革の時代を生き抜く有権者の生活からの活力を、
組織表現へと糾合するすべを手にしよう

有権者の覚醒と生活の活力からの政治的せり上がりが始まった
−地方選から見える光景

 時代の潮目が変わり始めた。統一地方選の諸結果は、「第二の敗戦」「国家的危機」という情勢に反応した有権者の覚醒が、自ら自身の政治的表現を持つところへと、せり上がり始めたことを示している。
 潮目の変化は、海岸で波を見ているだけでは分らない。風見鶏では風は読めても、潮目を読むことはできない。
 時代の潮目の変化とは、国家や時代、社会に対する人間の意識活動の歴史的な変化、それも個別的なバラバラな変化ではない、〈類としての構造的な変化〉のことである。政党政治の文明が曲がりなりにも定着している国や社会では、こうした時代の変化は政党再編(政党の綱領や基本政策の更新、政権交代など)として集約・収斂されていく。したがって政党活動とは、最も意識された人間の意識活動の集約表現だというのである。
 こうした政党政治文明が確立していない日本では、時代の潮目の変化は既存政党の瓦解と有権者の覚醒として進行していく。国民の一角が「平成日本の挫折」を自覚し、第二の敗戦に直面させられた昨年参院選から、今春の地方選にかけて展開してきた情勢とはこのことである。
 国家的危機、政党総瓦解という破局(戦後日本の意識活動の帰結)に対して、被指導大衆(国民)は、指導者(永田町や霞ヶ関、財界など)とは「別の道」を通って、総括―転換を図っていく。危機の時代、「従来どおりではやっていけない」と多くの人が意識せざるをえない情勢は、ある人々を愚鈍にし打ひしぐが、ある人々を啓発し鍛え上げるのである。
 「第二の敗戦」「国家的危機」という情勢に、最初に反応し覚醒した国民は、「リーダーを選抜し、それに服すことが、国家的危機の時代の国民の第一義的責務である」ことを意識し、深めてきた。ここでは、ホンモノの有権者としての自覚を行動に移す場として今地方選を迎え、その総括の中から新たな組織的能力へと転じようとしている。
 戦後最大の景気対策を打っても出口がなかなか見えてこない(構造改革のメドにつながらない)という情勢は、「行政依存人」的色合いの濃い基礎のところにも、「従来どおりではやっていけない」という意識を、否応なく植えつける。国家的危機を生活不安として実感する・せざるをえない国民の中では、その不安を「お願い」として打開しようとする者と、「自分がしっかりしなければ」として受けて立つ者という分岐が走りはじめ、そこから政治へのかかわり方、家族や社会に対する責任性や主体性の区分が、目にみえる形にせり上がり始めたのが、今地方選の光景である。
 こうした展開の中にあって、被指導国民の自覚や覚醒の深まりを、国家(的危機)や時代、リーダー論、公と私などをめぐる自己表現へと意識化していくために、「自自連立がかもしだすもの」や「石原慎太郎なるもの」を「格好の媒介」とせよというのが、この間の指針(政党政治の新時代を拓くための指針)であった。
 「自自連立」や「石原慎太郎」それ自身に賛成・反対というレベルで、政治情勢を論じたつもりになっている者には到底分らないが、自覚しつつある有権者は、「自自連立がかもしだす」国家的危機の扱い方や、「石原慎太郎なるもの」からかもしだされるリーダー論(リーダーを論じるということは、被指導=フォロワーの主体性を問わざるをえない)や「公と私」の扱い方を媒介にして、それが自分の感性にマッチするか、しないか、しないとすればどこがどう違うのか、を考えることを通じて、自らの政治表現を手にしていくのである。
 その進行を別の角度から言えば、国家的危機ということを社会・共同体の危機として意識している庶民が、地べたの活力―自分(たち)がしっかりしなければという自覚―として吹き上げ、それが意識的な政治表現を持つ前夜(自分たちの時代感性が、既存の政治構造では包摂されないことをはっきり意識して)にまで上りつめたのが、地方選の光景である。
 例えば、教育問題の扱いを見てみれば、それははっきりしてくるだろう。
 制度いじりや「道徳教育」という範疇で「教育問題」を語る者と、「みんながおかしいと思っているのになぜ変わらないのか」と問題を立て、人づくり・地域社会づくりとして教育を語り、道徳とは学校の授業で教えるようなものではなく、「選択・責任・連帯」という運営原理が社会にも学校にも貫かれることなのだ、という者と。ここには表層のコトバの違いではなく、感性・行動・立脚基盤・組織方法の実態的社会分岐が、鮮明に浮かび上がってくる。
 論理的に整理すれば、共同体に対する責任や連帯(「連帯」とは、それぞれが持ち場を守ってはじめて成立する。したがって「選択・責任」が前提となる)ということが欠落して「国家なるもの」「公なるもの」を論じる者と、戦後の欲望民主主義、市民的自覚なき私民(無責任)主義とは表裏一体だということである。(「地球益・国益・郷土愛」という綱領的表現を、われわれが掲げている意味)
 生活の皮膚感覚から始まったこれらに対する差別化の意識性が、国家や政党にかかわる主体性にまでわたる明確な差別化へと、さらにせり上がること。これが政党政治の新時代を拓くための国民的基盤の形成のことである。

権力再編−社会再編の天王山として、選挙の組織戦を準備しよう

 自覚しはじめた有権者、転換の時代を生き抜く生活の活力・元気。こうした被指導の政治に対する主体性や感性にマッチするのかどうか。こうした有権者の前に、いかなる存在感を示せるのか。地方選におけるリーダーの選抜は、このようにしてなされた。
 これをクリアーできた者と、できなかった者とでは、何が根本的に違うのか。
 生活の活力に立脚し、あるいはそれを(部分的にせよ)政治的に表現することは、風頼みのパフォーマンスでできることではない。当たり前のことであるが、それは自力でビラや議会レポートをつくり、一軒一軒配って歩き、人々の話をよく聞くという営々とした日常活動と、それに協力しともに担う仲間、すなわち組織をつくるという活動によってはじめて可能になる。そういう地べたの組織活動の苦労をしない者の言う「政治は政策、理念だ」とは、空文句である。
 事態の表層しか見えない者には、「無所属」「女性」「住民運動」のところにもある、それぞれの仲間づくりの苦労・持続性は見えない。仲間づくりの苦労・持続性に裏打ちされて初めて、志たりうるのである。まして、こうした地道な活動の中から、生活者の活力の一部分をつかみつつある共産党や公明党に対する「逆立ちのアレルギー」では、疎外の活動に帰結するのは当然である。生活からの健全なエネルギーのせり上がりによって、こうした歪みが是正される条件も生まれはじめている。
 こうした日常活動を、おねだり・面倒見でやるのか、それとも住民主権・住民自治でやるのか。ここがまず問われるのである。地方選挙は国政と無縁ではないが、地域の課題や問題を、「お願い・おねだり」で扱うのか、住民主権で扱うのか、ここにおける有権者=地域住民自身の主体性と地方政治家の主体性の成熟度を問わなければならない。行政に対するチェックや反対が問題なのではなく、それを住民主権として最後まで貫けば、政治に対する主権者の責任意識が生まれてくる(国家の基本方針をめぐる反対・賛成の議論の土俵が変わる)。これをどう育てるのかということなのである。(石原新知事の言う「東京から日本を変える」には、この視点がみえてこない、もしくは欠落している)
 こうしてつくった信頼関係を基礎にすれば、選挙の時にマイクでがなりたてるということをしなくても、市町村議員くらいにはなれる。そこに安住すればそれまでである。この信頼を確実な基礎として、選挙の時には、住民主権から国や地域のありようを正面から訴えて、地域の権力構造を再編する組織戦にうってでるなら、地べたの信頼関係は、政治的に深まり発展する。こうした地べたの活動家・地方議員に信頼され、存在感を示せるのかとして、国会議員の人格や政策・理念も検証される。
 (この基礎の上に、政党は可能となる。政党の最大の財産は、時代をとらえる(時代の中での人間の意識活動をとらえる)綱領と、その下で営々と築かれてきた信頼なのである)。
 県政、さらには国政選挙は、こうした権力構造再編を地域社会の基礎の再編と連動しておしすすめる組織戦の天王山なのである。このように構えることで、社会的活力や国民の自覚と完全に乖離した、永田町事情からの席替えに終止符を打つことができる。
 次期総選挙を、そのような試みの突破口を拓くものとして位置付け、準備しよう。そして「見返りを求めずに」政治家を育てる―選抜し、支え、検証する自覚した有権者のさまざまなレベルでの参加運動を、構造的につくりだしていこう。
 民主統一同盟、フォーラム地球政治21は、その先進的一翼を担うべく全力を尽くす。