民主統一 245号 1999/9/1発行

日本再生−国家的転換の時代の舞台は回り始めた
問われる有権者の成長

『がんばろう、日本!』国民協議会(仮称)の提唱

政権をめぐる論議に国民は何を問い、いかに参画するのか
連立の時代の知恵と作法を

 第一四五通常国会は、ひところなら与野党の対立で内閣が潰れてもおかしくないほどの重要法案を、数多く成立させた。
 情報公開法
 周辺事態法
 中央省庁改革関連法
 地方分権一括法
 国会活性化法
 憲法調査会設置(改正国会法)
 国旗・国歌法
 通信傍受法 
 共通しているのは、国のありかたの基本にかかわる課題であるということだ。これらを成立させた直接の要因は、自自連立に公明党を加えた「巨大与党」の数の力であるが、その背景にある時代の変化―国民の意識変化を見逃すことはできない。
 戦後長らく、国家という問題を忌避してきた国民意識の一角に、国のありようを考える(考えざるをえない)ということ、そこから「戦後のあいまいさ」にケジメをつける、その踏み込みに対する抵抗感がなくなったこと。小渕政権に対する高い支持率の背景には、こうした(時代の反映としての)国民意識の地殻変動がある。
 戦後最悪の経済・雇用危機、これまで経験したことのない少子高齢化社会の到来、底なしの様相を呈する社会の崩壊、そして外には朝鮮半島や中台などの不安定要因―これら“今、ここにある危機”への対処は必然的に、考える国民をして、「戦後の欠落」へと目を向けざるをえないようにさせている。
 「終戦記念日」の日経新聞社説は、吉田満の体験戦記『戦艦大和ノ最期』から、「負けて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。日本の再生にさきがけて散る、まさに本望じゃないか」という特攻隊の若き士官の言葉を引いて、「あれから半世紀余り、私たちはその思いに答えてきただろうか」と問うて、こう述べている。
 「しかし、より大きい戦後の負の面は、会社以外の公的なものを打ち捨ててきたことではないか。
 戦後三十年目に、吉田満は、戦争にかかわる一切のものを抹殺したいと願った日本人が『この作業を見事にやりとげた』と書いた。しかし一方で、『およそ「公的なもの」のすべて、公的なものへの奉仕、協力、献身は、平和な民主的な生活とは相容れない罪業として、しりぞけられた』ことも見逃さなかった(『戦後日本に欠落したもの』より)。」
 あるいは寺島実郎氏は、こう述べている。
 「私は、少年Aの両親の書いた書物をじっくりと解析して、あることに気づいて愕然とした。それは、この本に書いてあることではなく、まったく書いていないことについての発見であった。書いてあることは、前記のごとく驚くほどの『表層的良識』であり『もっともなキレイゴト』である。しかし、この本にはただの一度も『社会』とか『時代』という問題意識が出てこない。つまり、時代の課題に親として、大人として関与して苦闘しているという部分がまったく登場しない。これは大部分の日本の家庭の現状そのものである」(「団塊の世代の責任と使命」Voice 9月号)
 まさに、国家への忌避と依存とが裏表一体となった戦後日本の病の本質は、公的なものに対する忌避にほかならない。「日本に生まれた幸運」は大いに享受するが、この「幸運」を維持するために汗を流すことなどまっぴらゴメン―これが戦後日本の国民意識であろう。これにケジメをつけることなしに、戦後最悪の不況にも、未曾有の少子高齢化社会の到来にも、不安定さを増す周辺情勢にも対処できないということにつきあたったところから、ようやく戦後日本の虚ろ―公的なものへの忌避―を問うことと抜本的構造改革とをリンクさせる国民意識、歴史的な潮目の変化が始まった。
 ここから政治の風景が一変する。ここから、永田町と有権者との以前にはなかった新しい次元の緊張関係がうまれ始める。これが第一四五通常国会をめぐる光景である。
 だからこそ有権者は次期政権をめぐる論議に対して、「自自公連立に賛成か反対か」「この政府は何をしてくれるのか」という受動的対応ではなく、「この政府は何をすべきなのか」「この政府に何を問うべきか」として、さらに一歩ふみこんでいくべきである。連立協議は(野党の対応も含めて)それを分りやすくする格好の舞台である。

日本再生−戦後日本の虚ろにケジメをつけることと
抜本的構造改革をむすびつける戦略から政権協議を絞りこむために

 自覚しつつある有権者―国民の基軸層の中では、戦後日本の虚ろにケジメをつけるというコンセンサスは形成されつつある。では「その先」に何を描くのか。連立政権の問題とは、このことなのである。小渕政権への高支持率と、自自公「巨大与党」への低支持率との乖離という現象にあらわれている国民の躊躇、危惧もここの問題である。
 しかり。国家的転換の戦略と結びつけて政権構想、政権の基本政策をどのように提示し、論議していくのかが問われている。次期政権をめぐる論議は、戦後の虚ろにケジメをつけることと、抜本的な構造改革とを結びつける日本再生の戦略への踏み込みの糸口とならねばならない。それは、「何をしてくれるのか」ではなく、「何をすべき政権か」「この政権に何を問うべきか」として、自覚しつつある有権者を政権協議に参加させる―抜本的改革の支持基盤をつくることができるかどうかということでもある。
 日本再生―国家的転換の戦略から次の政権の役割、基本政策をどのように語るか。
 次期政権が掲げるべき基本政策のひとつは、構造改革と連動する景気対策である。昨年以来の金融・経済危機はひとまず凌いだものの、日本経済再生への本格的な足取りははっきりしていない。補正予算、来年度予算でも景気追加対策が必要となってくるが、ここでいわゆる「バラマキ的構造改革」をくり返すのではなく、構造改革促進型のものにはっきり転換させること。構造改革を促進するということから説明のできる景気対策でなければならず、それから説明のできないバラマキはしないということである。
 世論調査でも、望ましい追加景気対策としては、雇用対策と種々の減税に強い期待が寄せられ、反対に大規模な公共事業や地域振興券の再交付などは人気が低い。政府への依存によってではなく、自立するために改革を支持する経済社会層のニーズに適確に応えることが求められている。社会資本投資でも、少子高齢化社会、循環型社会、男女共同参画社会といった将来の社会像を描く場合の投資と、それなしの従来型配分とでは、まったく違ってくる。
 中小企業支援策でも、従来どおりの「官」への囲い込み―保護という発想と、自立支援―規制緩和という発想とでは、カネの出し方も智恵の出し方も一八〇度違ってくる。
 二つめの柱は、次の時代の社会像に照応した社会政策の構造改革の糸口をつけることである。とりわけ介護、年金、医療をトータルに改革しなければならないことは、すでに明白である。ここでも問題は、国家・社会に多くを求めるが貢献はしないという、戦後日本の虚ろ―国家に対する依存と忌避―のシステムと支持基盤に手をつけるのか、それをあいまいにするのか。ここをあいまいにしたまま、財政事情ということからだけで、小手先の手直しをして済ませられる事態ではない。
 少子高齢化社会、循環型社会、男女共同参画社会といった形で示されているこれからの社会の形と、それに照応した社会政策の転換も、このような意味での自立―国家と社会、個人との関係―を基礎にしなければならない。国家・社会に対する依存と忌避の文明では、生態系と人間活動とのバランスも含んだ、われわれの社会の“持続可能性”に対する責任意識は生まれてこないのである。
 三つめの柱は国家存立の条件にかかわるような問題への踏み込みである。
 ひとつは、有事法制などの安全保障政策。防衛や安保の必要を知りながら、同盟や抑止力という言葉を忌避し、それらを適確にマネージする政治の役割を「忘れて」きた戦後日本の病に、はっきりけじめをつけなければならない。国家観念を至上とした戦前は歪んでいたが、国家と個人を敵対化し、国家を忌避することが自由であるとしてきた戦後進歩主義も歪んでいる。
 そして、人づくりという点からも踏み込まなければならない。大学生の学力低下や小中学校での学級崩壊といった現象は、「教育問題」というよりも、国家・社会の持続可能性の基礎である人づくりの問題であり、あえて教育ということでいうなら、「公民教育」の全面欠除の問題である。このことを抜きにして、「学力」だけを何とかできるものではない。
 ここでも、「およそ『公的なもの』のすべて、公的なものへの奉仕、協力、献身は、平和な民主的な生活とは相容れない罪業として、しりぞけられた」(
前出)という戦後の虚ろにケジメをつけることが問われている。同時にそれは、自らの虚ろを、「国家」なる空文句で無媒介に埋めようとする自己中心主義の盲動に一切の余地を与えないものでなければならない。「『進歩派』の敗北に乗じて戦前の皇国史観への回帰を目指すのもまた論外」(産経8/15社説)なのである。
 国家存立の条件についてはさらに、次第に不安定化し、対峙状況をはらみつつある北東アジアの国際情勢の中で、地域の安定とわが国の国益を確保していく外交戦略が求められる。こうした包括的な角度から、国家存立の条件への政策的踏み込みを整理していく必要がある。
 そしてこれらを包括するものとして、創憲のシナリオをどうもつのかを問うべきであろう。言い換えれば、九条を軸にした従来の改憲論とは全く異なる土俵で、新しい国のありよう―国家像を論じるものとして、憲法論議を展開すべきなのである(本号10ー13面「西修氏講演」参照)。次期国会から憲法調査会が設置されるが、これを国民的な論議のてことして活用することも含め、次期総選挙では、有権者が候補者に憲法観を問うくらいのことは当たり前にしなければならない。
 憲法を論じることは何かしら大それたことであるというのが、戦後日本の“空気”になっているが、成熟した民主主義国で五十数年もの間(これだけ時代が大きく変化した五十年間に)憲法を一度も変えていない国はないといっていい。どの国も憲法改正には、わが国に匹敵するような高いハードルを設けている。にもかかわらずそれだけの改正が行われているのは、国民が日常的に憲法と現実の関係を論じ、乖離したらそれを改めることを当然のこととしているからである。憲法を論じる―国のありようを論じることが国民にとって当たり前になっていない「国民主権」とは何なのか、ということである。
 自覚した有権者は、こうした日本再生の戦略から当面の課題を絞り込むことを要求し、次期政権の協議に参画していこう!

普通の民主主義国家、普通の平和主義国家、当たり前の市民社会へ

 「およそ『公的なもの』のすべて、公的なものへの奉仕、協力、献身は、平和な民主的な生活とは相容れない罪業として、しりぞけられた」と記帳された戦後の平和や民主主義とは何なのか。その種の「世論」に逆らわないことを旨としてきた政治とは何なのか。
 日本では民主主義が当然のことだと思っている。しかし民主主義を民主主義たらしめるために何が必要なのかは、語られていない。民主主義には、民主主義を破壊するようなものには、自由も権利も認めないだけの秩序が不可欠である。最も民主的と言われたワイマール憲法下でナチスが合法的に政権についたことの反省から生まれた現行ドイツ憲法は、「自由で民主的な基本秩序」と言っている。ところが戦後日本では、秩序とか公ということは、反動のように忌避されてきた。民主主義を言いながら、民主主義を成り立たせるための秩序には責任を負わない。これを「普通の民主主義」にしなければならない。
 平和主義はどうか。平和主義をかかげる国は日本だけではない。しかし同時に、平和を維持するための手段としての軍事力を持たない国は、ひとつとしてない。そしてその軍事力を平和のためにいかにマネージするかを考えずに、「平和」を唱える国もない。まして平和の破壊者が現れた時に、それと戦う覚悟も準備もない「平和主義」国家など、ひとつとしてない。平和主義に基づく安全保障構想、外交戦略を持たない国も、ひとつとしてない。このような意味でわが国を、「普通の平和主義の国」にしなければならないのである。
 またわが国では、自由や人権を普遍的価値と認めている。しかし自由も人権も、国家が崩壊すれば失われるという現実は忘れられ、むしろ個人の自由と国家・社会の維持が対立させられている。それは自由ではなく、エゴにすぎない。国家や共同体を維持するために、時として個人の自由や人権は制約され、侵害されるのである。だからこそ、そこには権力発動のルールが必要なのであり、権力の恣意的なあるいは超法規的な発動を厳しくチェックしなければならない。有事法制や「盗聴法」は、こうした問題にほかならない。
 そして自由や人権は大いに享受するが、それを維持するための献身はしないという自己保身の習性こそが、日本では自由と人権の最大の破壊者なのである。いわゆる民暴やオウムの問題は、結局戦後日本の「(小)市民」社会がその温床となってきたといっても過言ではない。まさにその意味で日本を、自由・人権のために国民が戦う「当たり前の市民社会」へと正していかなければならないのである。
 しかり。戦後日本の虚ろにケジメをつけ、自由や民主主義、国家や社会についての「当たり前の常識」へと日本を再生させ、そこから地球益・国益・郷土愛をむすびつける新たな国家へ向かう、国家的転換の舞台は回り始めた。この転換をおしすすめる国民的な運動―協議体として、「がんばろう、日本!」国民協議会(仮称)を提唱する。日本再生のための無数の「小さき一歩」を、ともに踏み出すべく、9・19シンポジウムへご参集を!