民主統一 247号 1999/11/1発行

興そう、日本再生の国民運動を!
創りだそう、平成の時代精神を!

自自公連立の向こうに見え始めた政治の風景

 介護保険をめぐる自自公連立の迷走とドタバタは、新しい政治への場面転換をいっそう予想させるものとなった。
 西村発言や介護保険、藤波問題、さらに景気対策・中小企業支援やPKF解除、団体・企業献金問題、外にはインドネシアや北朝鮮問題など様変わりしつつあるアジアの新しい風景と日米同盟の課題。連立を揺さぶるであろうさまざまな問題の向こうに、与野党の区分を超えて見えてくるものは、現状追認の延長に「改革」を語ってきたできあいの政界再編の破裂である。「改革」を掲げて、財政的には「大きな政府」、外交・安保は「普通の国」、決定システムは「国対・官僚主導型」へと着地していくのか、それとも本格的な改革の助走路へと向かうのか。自自公連立をめぐる諸問題は、こういうところから始まることになるだろう。
 この場面転換の変数はいくつもあるが、決定的なのは、生まれつつある国民内部の新たな利害の亀裂である。
 国家的な危機の時の緊急避難策は、覚醒しつつある国民にも容認されうる。問題はそれをとりあえず凌いだ時に、本格的な改革への一歩を踏み出すのか、それとも過去の習性に戻ってしまうのか。ここから改革をめぐる本格的な攻防が開始される。政党政治が確立されていないわが国では、それは「わかりやすい」政権論争や政党間対立としては現れない。その分余計に、国民内部の新たな利害の亀裂は多様な形で走っていく。
 改革の戦略の最も重要な要諦のひとつは、改革の権力基盤をいかにつくるのかということである。平和な右肩上がりの時代(めったにない「幸運な」時代)に形成された膨大な既得権層に、(利害関係のない)改革の世論一般をぶつけることほど「無邪気」で愚かなことはない。問題は、昨年来の緊急避難的財政出動で息を吹き返しつつある既得権構造にとって替わる、改革の支持基盤―権力基盤をどうつくるのか、顕在化しつつある国民内部の新たな利害の亀裂を、このようなものとして政治の舞台に登場させうるのかということなのである。(銀行やゼネコンの公的救済に対して「自分たちにも徳政令を」と要求する国民と、「それだけは言うわけにはいかない」という国民との緊張関係が、実感的にどれだけ見えているのか、ということでもある)。
 ようやく、日本型社会主義にぶらさがっている層と自立している層、あるいは日本型社会主義に(自立を)妨害される層や今後はぶらさがれなくなる層などといった、国民内部の利害の亀裂が顕在化しつつある。これはもはや、単なる経済的な利害の相違にとどまるものではない。
 介護保険や年金をはじめとするこれからの社会保障をどう考えるのか―その背景には「福祉国家」の失敗と「市場原理主義」の失敗とを踏まえた、新たな国家と市場と市民社会・共同体との自立した相互関係をどうつくるのかという問題が見え隠れしている。あるいはまた、地方分権や地域社会の再生、働き方などの「国民生活の再構築」の領域から、憲法や安全保障、あるいは人づくりや家族・家庭のありよう(人間の再構築)、循環型社会と産業構造転換など、あらゆる領域において国民内部の利害の亀裂が顕在化しつつある。同時に、その相互の関連とトータルな集約方向が、次第に一定の「国家像」を結び始めようとしている。
 きわめて粗い言い方であるが、例えば、経済生活における自立と依存の区分は、安全保障における姿勢の違いにも対応し、それは転じて人づくりに対する責任の取り方の違いとも連動し、憲法問題のスタンスの違いにも反映してくる、というように。
 こうした国民内部の利害の亀裂を政治の舞台に登場させ、再編・統合するものこそ、政党政治の力である。
 「第二の敗戦」を再び、「一億総懺悔」(だれも責任を取らないままの、上から下までの「公的資金」バラマキへの総依存)へと帰結せしめるのかどうか。その道を断って、顕在化しつつある国民内部の利害の亀裂を、政治の舞台に登場させ、政党政治の領域で再編・統合しうるのか。言い換えれば、「第二の敗戦」から自覚しはじめた有権者が、新たな国家像を自らのものとし、その方向に向かって国民意識をさらに覚醒させる、日本再生への国民運動を興すことができるのかどうか。自自公連立をめぐる諸問題の向こうに見えてくる政治の風景とは、こうしたものである。
 それはまた、金融・経済危機から立ち直りつつあるアジアの新しい風景の中で、わが国がいかに生きるのかという課題ともリンクしていく。2000年という区切りの年にわが国が主催する沖縄サミット、そして2002年の日韓共催のワールドカップは、そうした舞台として既に設定された日程である。

新たなステージへと転換しつつある東アジアにおいて、わが国はいかに生きるのか

 言うまでもなく、わが国の基本的なスタンスは「引き続き日米同盟を強化してアメリカをこの地域に引き止め、そしてこの地域における多国間協力に、日本が揺るぎないイニシアティブをとりつつ、日本の経済発展をベースにして、アジア太平洋の経済発展のために役割をはたしていくという、きわめて単純な」ものである。しかし同時にそれは「単純ですが、道のりは遠い」(いずれも9・19シンポジウムでの森本敏氏講演より)。
 日米同盟を、多国間安保の仕組みのないアジア太平洋における安定と発展を支える「公共財」とすることは、すでに九六年の「再定義」で確認されたことであるが、金融・経済危機から立ち直りつつあるアジアの新しい風景の中で、そのための課題がさらにシビアに問われてくる。それはわが国にとって、いかに生きるのかの根幹にかかわる問題である。
 インドネシアの苦闘は、金融・経済危機を通ったアジアにおいて、新しい「民主化ドミノ」の風景が始まりつつあることを示唆している。韓国、台湾、フィリピンと進んできた東アジアの民主化は、新しいステージを迎えつつある。それは、経済発展―体制安定を重視してきたわが国のかかわりの根本的転換を迫るものである。同時にインドネシアの例で明らかなように、アメリカが国益をかけた関与をせず、しかしわが国にとっては死活的である問題に対して、わが国はいかに関わり、日米同盟を機能させていくのかが、すでに問われている。
 わが国は、「とにかく事が起こらない」という意味での「安定」を国益とするのか、それとも「自由・民主主義」の紐帯による安定を国益とするのか。それは北朝鮮政策や中台問題への関わりと、直接関わってくる。
 そして現状の境界を容認する、少なくともそれを武力によって変更することは容認しないという原則を共有するところから、地域の安定―多国間協調体制が構築されるとするなら(ヨーロッパはその道を通った。はたしてそれ以外の道はありうるのか?)、アジア太平洋地域においてそのような多国間協力の枠組みを展望するために、どのような中国、どのような「統一朝鮮」、どのようなインドネシアを望ましいものとして想定するのか。この問題抜きに、「とにかく事が起こらないように」という惰性的な現状維持志向では、現状維持すらできない。このことが、来年三月台湾総統選とその直後の沖縄サミットという政治日程として、すでにセットされたのである。
 その向こうには、二〇〇二年のワールドカップ日韓共催というスケジュールが待っている。すでに「定住外国人の地方参政権」について韓国政府は準備に入り、相互主義でという日本側の慎重論も根拠を失いつつある。日本文化の開放、天皇の訪韓要請と合わせて、韓国側の取り組みは、近代史の総決算としての対日関係転換という戦略的取り組みであり、国民意識の覚醒―「第二建国」の国民意識を伴うものとなっている。
 これに対してわが国はどうか。いかなる国家戦略と国民意識の覚醒として二〇〇二年のイベントを迎えるのか。取り組みははるかに遅れていると言わざるをえない。
 一方でアジアに見える新しい風景は、ナショナリズムの台頭である。インド、パキスタンの核保有の背景に、この問題を見逃すことはできない。国際派で知られるインド外相も、核保有について「民主主義国において、国民が支持することをなぜやっていけないのか」と反論している。北京の米大使館へ抗議デモに押し掛けた学生たちの背景には、オリンピック招致の失敗やWTO問題など、ここ数年の「中国脅威論」による「封じこめ」で溜まりに溜まったストレスがある。これが、中国内での一定の自由化の成果でもあることを見逃すことはできないし、この道を通って中国の統治活動の歴史的移行も準備される。
 民主化はナショナリズムを伴う。自由も民主主義も普遍的な価値であるが、(戦後日本が勘違いしたような)無国籍なものではない。韓国の民主化も反日ナショナリズムの中から成長し、「第二建国」で新しいステージに向かいつつある。台湾の民主化も、台湾のアイデンティティーの確立(台湾化)を通って、「新台湾人」の確立へと向かいつつある。いずれも近代における「被害者」から、「長いプロセスを経て、独自の国民国家としての集団的アイデンティティー(被害民族としての共通性を媒介としない/引用者)を形成してきた」(李鍾元『大航海』10月号)のである。
 改革の時代における国民意識の覚醒―ナショナリズムの高揚を、排他的な被害者意識としてではなく、新しい国家像、国益にむけた国民意識へといかに誘導しうるのか。リーダーとフォロワーの双方に、そのことが問われる。ひるがえってわが国の「嫌米」や「対米自立」論、「中国脅威論」から、いかなる意味でわが国の国益が見えてくるか。
 この問題に対する政党と国民の統制力は、どれほどあるのか―ここに、新興パワーとして既存の秩序(欧米)から封じ込められ、同時にポピュリズムによって改革を挫折させたわが国が、孤立した偏狭なナショナリズムによって、無条件降伏と占領統治へとつるべ落としのように進んで行ったという、わが国近代の歴史的総括がかかっているといっても過言ではない。同時にそれは、政党政治の確立に失敗した歴史の総括でもある。
 そのためにも、わが国の国益とは何か、そしていかなる中国を、いかなる「統一朝鮮」を、わが国とアジアの発展にとって望ましいものと考えるのかを明確にしなければならない。
 米国議会のCTBT条約否決に見られるように、次期大統領選の行方も、アメリカのこの地域に対する関与を微妙に左右する。だからこそ、いかなる日米同盟がこの地域の公共財となりうるのかを、わが国は明確にしなければならない。
 こうしたことが、すでに自自公連立政権をめぐる政治日程に組み込まれている。自覚した国民はここからも、事態の推移を読み取り判断し、賢い主権者へと成長していこう。

平成の時代精神を創造する国民運動を!

 自自公連立が、PKFや憲法問題よりも先に、介護保険で理念・制度の根幹にかかわる迷走をしたのは意味深長である。ここには、安全保障や憲法といった「ハード」の問題では見えにくい、国家をめぐる本質的な諸分岐があるからであり、しかもそれは「ハード」の問題以上に、現実の国民意識と利害の亀裂に関わっている(すなわち改革の権力基盤づくりに直結する)からである。
 介護保険や年金をはじめとするこれからの社会保障をどう考えるのか―その背景には「福祉国家」の失敗と「市場原理主義」の失敗とを踏まえた、新たな国家と市場と市民社会・共同体との自立した相互関係をどうつくるのかという問題が見え隠れしている。ここから現実の国民意識と利害の亀裂をとらえるのか、それとも従来どおりの分配(バラマキ)の調整としてとらえるのか。これによって見ている風景は、全く別世界のものとなる。
 きわめて雑な言い方をすれば、憲法改正の論理がどんなに「頑迷な改憲」「頑迷な護憲」の枠を超えた、国民主権の発揚としての「創憲」の論理であったとしても、その支持基盤に前述した社会的分岐が照応していなければ、それは国民生活と国民経済の桎梏となったできあいの権力分配構造をそのまま受け取って、そこに「新しい国家論」を接ぎ木するだけのものとなる。「国家なるもの」を支えるべき社会的自我―開かれた自立した市民・主権者の確立という領域でしか、戦後の虚ろにケジメはつかない。言い換えれば、労働観、人間観、社会観、そして歴史観の領域での決着抜きに、どんな立派な「国家論」を持ってきても、日本の再生はできないということである。
 まさに「がんばろう、日本!」国民協議会がめざす国民運動は、かような意味で国民意識を覚醒させ、肥大化したできあいの権力構造が占有している領域を社会自身の自己統治に委ねていくための、本格的な改革の権力基盤を創りだすことをめざすものである。
 問われしは、われわれ自身の誇りと構造改革の意志を象徴する、平成の時代精神を創造することである。そしてそれはもはや、実践領域の問題以外のなにものでもない。
 日本再生の国民運動を、ともに興そう!