民主統一 255号 2000/7/1発行

戦後保守を清算する力強き改革政治へ
本格的な有権者再編のはじまり

戦後政治の清算=構造改革をめぐる本格的な政治再編・有権者再編の幕は切って落とされた

 今回の総選挙の結果は、「消極的勝利と達成感なき躍進」(飯尾潤・政策研究大学院大学教授 6/27読売)というところだろう。連立与党は絶対安定多数を確保しつつも、六十議席を減らした。自民党の大物議員が小選挙区で民主党候補に相次いで敗れ、公明党は自民党との選挙協力で「沈没」した。
 一方の民主党も躍進はしたが、政権交代をねらうほどには伸びなかった。なによりも、事前の世論調査では高い投票意欲を示していた有権者を全面的に動員して投票率を上げるような、魅力的で力強い選挙戦を展開しきれなかった。
 しかし、政権政党側が政策方向らしきものをまったく示さず、「数合わせ」「票のバーター」「予算配分」などという「選挙のための政治」に明け暮れる一方で、野党(民主、自由)が社会保障や税制、財政再建、公共事業などについて「苦い薬」も含めて提起するという今回の選挙戦は、構造改革をめぐる新しい政治的分岐が、おぼろげながら形になりはじめたことを示している。
 「このままでも何とかなる」と思うのか、それとも「何とか変えなければだめだ」と思うのか。構造改革をめぐって生じている現実の生活利害の亀裂(「行政依存人」と「経済自立人」と表現されるような。それが画然としているわけではないが、例えば介護保険の実施をめぐって生じたのは、こうした性質の亀裂である。このような亀裂が、時により課題に応じては、鋭く立ち現れている)が、漠然としたものではあれ次第に、こうした政治的方向性の違いへと収斂しようとしている。その途上での「通過点」が、今回の総選挙にほかならない。
 別の言い方をすれば、こうである。
 九十年代の政界再編は、永田町内部の離合集散であった。それは風が吹いて水面が波立てば、五十五年体制が壊れて「改革」できるという「浅はかな」考えだった。改革のためには、戦後政治を清算するに足りるエネルギーが不可欠である。それは水面が波立つ程度のものではなく、潮目が大きく変わるほどの力、つまり戦後政治を支えてきた基盤たる国民そのものの中に現実の分岐が生まれるとともに、それを集約する組織戦があって初めて可能になる。そこまでの肚が据わっていない「改革」派は、風が止めば古巣に戻ることになる(なった)。
 先送り・現状維持・バラマキをめぐる現実の生活利害の亀裂が始まるとともに、それが政治的方向性をめぐる分岐へと発展していく。小渕内閣をめぐる諸問題は、このことであった。本格的な有権者再編と連動した政治再編の幕が、ここから開こうとしている。
 自公の選挙協力は、政権維持のためには「何でもあり」の強引な手法だと見られている。しかし、これほどまでの選挙協力がスムースに進んだのは、自公の支持基盤がかつてないほど、共通性を持つようになったからにほかならない。
 かつての自民党は「包括政党」であったが、最近は衰退産業を代表する部分代表でしかないことは、世論調査などでも明確になっている。「政権政党」としての支持基盤が、構造的に離反した結果、残っているのは「ぶら下がり」に純化した戦後保守である。故梶山氏の言うところの「単なる政権維持政党に堕し、破壊も創造もできない集団」とその支持基盤への変質である。自公の支持基盤は、いまやきわめて親和的なものになっている。
 したがって自公は、「行政依存人」の政治ブロックとして非常にわかりやすい形で整理されつつあるといえる。問題は、それを「私情政治」として表現するのではなく、「政策」として表現してくれればよいのである。
 わかりやすくなっていないのは、「経済自立人」の政治ブロックである。構造改革の支持基盤は確実に、生活の利害として生まれつつある。それは単純に経済の「勝ち組」というようなレベルのことではなく、例えば先送りの年金改革によって、一千万円ちかく将来の給付が減ってしまう世代や、所得控除の恩恵は受けないのに、初任給より高い年金受給者の年金を徴収されている階層、あるいは子育てや介護について多大な負担と不安を抱えている社会層、補助金の恩恵に与っていない社会層などのことである。こういう人々の「不安」や「不満」を集約し、政治表現すること、これらを体系化し、方向を示すような骨太の政治(主張とそれを体現する人材・組織)が未確立なのだ。
 民主党は(全体としてみれば)まだまだ、先送り・バラマキ政治批判の「受け皿」として機能しているにすぎない。公共事業や課税最低限について、「苦い薬」の処方箋を選挙期間中言い続けたことは評価したいが、争点設定能力という点ではまだまだである。
 争点設定能力というのは、国民生活の利害を構造改革の方向へ再編する、有権者再編の組織能力にほかならない。例えば公共事業なら、「維持か削減か」という論争の枠組みそのものを再編する争点設定ができるか。例えば、地方交付金一括交付・補助金=縦割り配分廃止・地方の自己決定という構造改革の具体化として、争点設定できるかどうか。これは論理の力である同時に、決定的には組織戦の力である。パフォーマンスや広告屋が考えるキャッチコピーで代位することのできない、本来の政党活動とその蓄積である。
 自由党も、分裂して少数になったが、比例では98参院選より百三十万票多く得票した。構造改革の支持基盤が、何の政党的指導もないなかで、後退せずにむしろ増えたのである。問題はそれを組織しきれていないだけのことである。小沢氏自身、インタビューなどで、この間、戦術的に反省する点があるとすれば、(羽田内閣の時の)社会党外しと、新進党の解体であったと述べている。その意味するところは、永田町の事情で改革期待層・支持基盤にキズをつけたということである。「純化」しても支持基盤が減らない(むしろ増える)ことが明らかになった今、問われているのは、この支持基盤を確実に組織していくことだけなのである。
 かくして、戦後政治の清算=構造改革のための本格的な有権者再編と、それを基礎にした本来の政治再編へむけた組織戦の幕は、切って落とされた。

「先送り・バラマキ」政治ブロックに対抗する「構造改革」政治ブロックを形成し、戦後政治を清算する政権交代への道を開け

 今回の選挙戦で見え始めた本格的な有権者再編をさらに促進し、戦後政治の清算=構造改革をめぐる政治分岐をより鮮明にしていくために、なにをなすべきか。
 自公ブロックは、さらに「行政依存人」へとその基盤を純化せざるをえない。「私情政治原理」やバラマキとこれ以上同居できない部分は、さらに離反していくだろう。
 「構造改革」政治ブロックは、民主、自由がまず、みずからの立脚点を鮮明にして足腰を鍛えるべきである。民主党が曲がりなりにも結成以来、自民党への出戻りを出さずにきたことが、98参院選で民主党に投票した人の七割が今回も民主党に投票したことにつながっている。
 そして来年の参院選で、「経済自立人」政治ブロックの選挙協力をめざすべきだろう。
 「単なる政権維持政党」と「行政依存」「ぶら下がり」の支持基盤へと純化した戦後政治、その核心たる戦後保守を清算する力を持たずして、政権交代はなしえない。選挙協力の可否は、票のやりとりや調整というレベルでではなく、戦後政治を清算する政治の力強さの多様性および、構造改革の多面的展開をめぐる競争的相乗効果として展開されるべきである(その結果として、候補者調整もありうる)。先送り・バラマキではもうやれない、私情政治とはこれ以上同居できないという、戦後保守政治からの多様な離反を受け止め、それらを構造改革の支持基盤へと変換していく機能・媒介の多様性として、各党の個性・得意領域を磨くべきである。そういう手順をふまずに、思惑や駆け引きで、軽率に「組み合わせ」の話をするべきではない。
 消滅の瀬戸際から「復活」した社民党は、支持基盤が入れ代わり、女性が半数、平均年齢も十歳ほど若返った。かつての社会党のシッポが切れて、「左」の労組依存型の政治勢力というよりは、「女性・市民・環境・平和」というような勢力に変質して行くと思われる。構造改革の主体勢力とはなりにくいが、「先送り・バラマキ」への批判勢力としては、部分的に連合できる可能性もある。
 共産党は支持基盤との関係からいえば、「行政依存人」にきわめて近い。今回の選挙戦でも議席増の予想に反して、「消費税増税反対」(増税を争点にした政党があったか?)と「反共謀略宣伝」批判を前面に押し出した、守りの組織戦に徹した。しかし公明党と同じ基盤で激しく争ってきたことからも、自公と組むことは不可能である。
 こうた各レベルでの協力によって、「先送り・バラマキ」政治ブロックと「構造改革」政治ブロックとの間で競うための過渡的な形を、次期参院選でぜひつくりあげるべきである。
(選挙結果の分析は2―3面。都議選については割愛した。)