民主統一 263号 2001/3/1発行


改革保守は、国民主権の発展からすべてを語る!

構造改革を正面から問うために、参院選は小泉・自公保政権と正面から構えよう

 どの世論調査でも、森内閣の支持率はひと桁台となり、あらゆる層(職業、年代、支持政党)で不支持一色となった。一方、ムーディーズよりも保守的といわれる格付け機関も日本国債の格付けを下げ、株価はバブル崩壊後の最安値を、連日のように更新している。
 足元の自民党からさえ、「辞めてほしい」の声が上がり、連立を組む公明党も「不信任案に反対しても、森内閣を支持するわけではない…」というわけの分からないことを言い、それでも「予算成立」の大義名分が通る。しかもその予算案たるや、(飲み食いに使われていた)「外交機密費」さえビタ一文も削らず、これまでの手法(経済政策)ではだめだとこれだけ言われている(市場から、あるいはG7で)手法(景気対策という名のバラマキ)をいささかも変更せず、その一片の意思すら見せないというシロモノである。
 まさに「今は悪い国民と悪い政治が結びついている。国会は、民主主義のルールからすれば、納税者の代表でなければいけない。ところが、今の国会は税金を払っていない人の代表なわけだ。税金をきちんと負担しないで、便益ばかりを受けている人の代表になっている。そんな民主主義国がうまく機能するはずがない」(竹中平蔵「論争」三月号)ということだ。
 一応、仕事の責任は果たしてきたという世界からみれば、KSDや機密費、危機管理など、一連の問題は「公金横領・公職横領」と言うしかない。諌早干拓に象徴されるバラマキ公共事業は、とてつもないコスト感覚の欠如である。膨大な財政赤字を抱えてなお、「当面の景気対策」のためにそれを続けようというのは、「お札を燃やして暖をとる」に等しいオロカなことであり、とてつもない総無責任社会をつくることだ。
 だからこそ、考える国民、税金を払っている国民、「政治(利権分配)」のお世話にならなくとも自分の家族くらいは自力で養えるという国民は、既存の政治をバイパスして直接、時代の変化と向き合い、国のありようを問い、自分の生き方を考えている。
 こういう人々には、新大久保駅の事故や、京福電鉄運転士、航空自衛隊パイロットの殉職が、仕事に対する責任とは何か、自分の目先の利害を超えたなにものかに賭ける気概とは何か、“新たなる公”とは何かという強烈なインパクトとなっている。
 「何のために生き、何のために死ぬのかというまさに人間の根源的な問いかけから、大人が持つべき最低の社会規範、リーダーが備えるべき資質と有権者がリーダーを選ぶ際の責任が、正面から問われる時代になった。
 従って、このまま何も変えず先送りして自分は逃げ切るという生き方を選択する人や、○○さんを首相にすれば、(自分は何もしなくても)改革をしてくれるのではないかというレベルでは、もはや新しい時代の大人として通用しなくなっており、それではどうすればいいのかという、主権者であることを自覚した人達の新たな悩みが発生し始めている」(4面岡村)。
 まさに構造改革とは、今日の失敗を来年の成長で穴埋めできた時代の習慣―失敗の責任を取らずに先送りできた戦後を根本から見直すこと、事実を直視し、気休めや先送りをせず、当事者として責任をとることの回復なのである。(その対極が現政権。首相に、蔵相に、外相にいかなる当事者意識があると言えるのか)。当事者意識がない人間に、自己決定などできはしない。自己決定できない人間も国家も滅亡あるのみ。
 戦前の「当面の景気対策」は「大陸進出」であり、それをズルズル続けた結果は無条件降伏の焼け野原と戦時インフレであった。バブル崩壊後の「当面の景気対策」は公共事業のバラマキと膨大な赤字国債の発行である。財政赤字の比率はすでに戦中期に匹敵している。これをいつまでズルズル続けるのか。「敗走」を「転戦」と言いくるめて国を滅ぼしたのは、「自分の責任だけは逃れよう」という各クラスの逃げ切りである。不良債権の処理を先送りして膨らませているのも、なんとか経営責任を問われないように、という事だけを考えている逃げ切りである。
 誰が責任をとるのか。国民が主権者として責任をとる以外にない。ハイパーインフレで、国民資産と財政赤字を相殺する―そういう形で責任をとるのか(その時は、日本社会からは「信頼」「信用」「勤労勤勉」ということは消える)。それとも構造改革へ舵を切るために、主権者として責任をとるのか。
 「誰かがやってくれる」という改革は、ニセモノだと思え。既得権層やぶら下がりとの関係で、「改革」を言うのかどうかを争う空間は、終わりにしよう。そのためにも参院選挙は、小泉・自公保政権との正面対決という構図にするべきだ。
 「解党的出直し」「郵政三事業民営化」という小泉氏の主張を自民党がのむなら(延命のために自民党がそこまでのフリをするのなら)、その先をいく改革を提起すればよい。国民の金融資産の七割が、郵便貯金や財政投融資、国債などの形で国や地方の公共債務になっているという異常な構造(生きガネとして回らない構造)で、自立、自由などということが可能なのか。そこを問う「郵政民営化」を提起し、「小泉・自公保政権に、それができるか」を正面から国民に問えばよい。
 財政再建だけなら増税でもできる。インフレでも可能だ。国民主権の発展、自由・自立、選択―責任―連帯のための改革へ踏み込むために、自覚した主権者はこう言おう。「われわれは構造改革をここまで言い切る。どうする、鳩・菅、小沢はどうだ? 小泉・自公保政権はそこまでできるのか?」と。

国民主権の発展からすべてを語れ、そこから改革保守の旗は立つ
主権者としてのジェネラリストになろう

 既得権や桎梏となった旧い制度との関係でしか「改革」を語れないのか、それとも国民主権の過去―現在―未来の発展の論理から改革を語りきるのか。後者へ土俵を転換するために、すべての基本政策を「自由、民主主義、市場経済」という普遍的価値から語り、その歴史的発展として展開できる国民主権のジェネラリストが求められている。
 大日本帝国憲法と日本国憲法との最大の違いは、「国民主権」である。これが戦前と前後の根本的違いだ。貧しい原風景が残っていた時代までは、「豊かになること」が国家目標だったのは頷ける。だが、基本的に衣食足りるようになって以降、国民主権の発展はどうだったのか。欲望民主主義の開花へともっていった七十年代後半からのおねだり・バラマキ総社民の清算こそが、戦後の清算の核心問題だ。
 このなかで「守るべきものを守る」という声が挙がらなかったのは、保守でもなんでもない。「守るべきものを守る」、これを国民主権の発展から語りきるところからこそ、改革保守の旗は立つ。
 「日本の歴史と伝統」も「自由、民主主義、市場経済」という普遍的価値を自らに刷り込み、発展させるキャパシティーがあるものだけがホンモノなのだ。そこからのみ、@日本を東アジアにおける自由・民主主義の最強・最良のパートナーとすべく、そしてA東アジアに極(大国)は不要であることを鮮明にするために、日米同盟を再設計するという改革保守の旗が立つ。
 (「日本の日本たるゆえん」「矜持なるもの」を自由、民主主義の発展から語り切れる者のみが、「日本の日本たるゆえんは、仮令どんなに絶望的なものであれ、一度の敗戦で見失ってしまうようなものではない」と言い切れる)。
 アジアに「自由、民主主義、市場経済」を定着させ、深化させることがわが国の国益であると言い切れるところに、改革保守の旗は立つ。国益を国民の(個別利害の)「上位」に、あるいは国家と市民社会とを対立的に(または越えがたく区別して)描くという発想(時代)そのものの転換である。国益を国民主権の発展から語り切るところに、改革保守の旗は立つ。
 もはやそれは、独裁や中央集権・計画経済との関係での民主主義や市場経済のことではない。自由・自立、選択―責任―連帯という市民社会の運営原理としてどこまで使いこなせているのか、ということである。例えば沖縄の問題は、国益を国民の上位に置く、というだけで「解決」できる問題ではないし、各々の利害の総和が国益であるということでもない―という意味で、成熟した民主主義と国益をめぐる試金石だろう。
 資本主義も民主主義も完璧なものではないが、自らの意思で参加して選択し、それについて責任を負い、だからこそ他と連帯できる―そのように使いこなせる仕組みである。ただ「悪い国民と悪い政治が結びついている」と、民主主義も市場経済もうまく機能しない。
 例えば、国民の金融資産の七割が、郵便貯金や財政投融資、国債などの形で国や地方の公共債務になっている国家金融体制で、自由な選択や自立が可能なのか。しかもそれが「利益をもたらさない活動を維持するために、利益の上がる活動から資金が抜き取られてしまう」という形で行われているなら、なおさらである。ぶら下がりには国家的保護を、自立するもの、チャレンジするものには苦役を、という仕組みのなかで、「公正」「公平」は成り立つのか。
 自由や自立を保証し、その経済的基礎を確立するものとして、経済・財政・金融や社会保障政策を語りきるところに、改革保守の旗は立つ。
 このような問いかけが始まっている。
 「守秘義務を理由に非公開にする世界が悪いのは、『お任せ民主主義』を民主主義と錯覚させたことだ。国民や住民は、行政や政治に要求することが民主主義と思った。〜略〜国民や住民と『協働』で国や地域を作る民主主義ではなかった。〜略〜
 これまでの政治家は税金を使うことだけを考えた『タックス・イーター』だ。情報公開で国民が情報を共有する時代には、税金を納める側に立たないと政治家が成り立たない。どの事業にいくらの予算がついたという価値基準をやめ、いかに国民や住民との『協働』を促して中身をどう作るのかに転換すべきだ。国民や住民の責任は重くなるが、そういう民主国家を作る方向へ進まないと、日本社会の閉そく感はとれない」(北川・三重県知事「毎日」2/20)。
 しかり。行政や政治に要求する―シングル・イシューということが「政治参加」だと「錯覚」していた時代に、国民自身がケジメをつけ、卒業すべき時なのだ。国家や政治、行政の「悪」「行き過ぎ」をチェックするのも結構だが、それでは永遠に「非主体者」「観客」に止まる。
 反権力からは権力の主体にはなれない。国民主権とは、国民自身が権力の主体として自ら統治することなのだ。アンチ市場経済(市場経済=強者の論理的発想)では、市場経済、民主主義を、自由、自立、自尊のために使いこなす主体にはなれない。
 国家や“公”は、自らの「上」や「外」にあるのではない。それはわれわれが自ら創り、協働して維持し、連帯して発展させていくもの―誰かが与えてくれるものではない。
 国民主権の発展から全てを語り、権力の主体として統治能力を磨こう。

主権者としての統治能力を磨こう

 「しばしば統治のリーダーシップの重要性が議論されるが、重要なのは、リードされる能力、あるいは『統治される能力』であろう。リベラル・デモクラシー(自由な民主主義)の存立にとって不可欠な条件は、意見を異にする者同士が、共存する知恵をもっているかどうかということである。〜略〜
 (米国社会の例から)リベラル・デモクラシーの下で、国民の『統治される能力』が鍛え上げられ成熟化する過程であった。『統治される能力』を持つ者の中からリーダーは選ばれる。だれもが嘆く昨今の日本の政治機能の不全と『リーダー不在』は、まさにこの『統治される能力』の不足を物語る」(猪木武徳2/23日経「経済教室」)
 「統治される能力」は、「統治活動」を自らの「外」や「上」に、他から与えられるものとして見ている限り、鍛えられない。個人の自己統治こそ、基礎である。「一身独立して、一国独立す」「立国は私なり、公に非ざるなり」という福沢諭吉の名言を借りれば、欲望民主主義・カラスの勝手の自由へのアンチや疎外、コンプレックスで“国家”や“公”を振り回すのではなく、この中で(戦後の国民主権の「発展」のなかに身を置いて)「個の確立」を求め続けたからこそ、“新たなる公”を自己の対象認識としうるということである。
 権力や権威に依存せずに自己統治する―「統治される能力」を磨くことが、権力の主体者としての義務と責任の要件でもあり、権力や情報の集中と分散というこれからの統治システムを両立させる基礎でもある。
 そこから例えば国家イメージも変わる。
 「主権者が法を定め、その法を執行していくという、近代的な国家イメージから、さまざまな諸集団から合意をとりつけ、ルールを決めて統治を行う複合体へと変わっていく必要がある。〜国家と社会の連携による柔軟なルールの設定〜」(中西寛2/27日経「経済教室」)
 そのことがより実践的に、より身近に問われるのは、地方自治の場となろう。その意味でも「民主主義の学校」である。
 主権者としての統治能力を磨こう!