民主統一 270号 2001/10/1発行

戦後日本の死と再生のドラマ
歴史の節目に問われる国民主権の内実

戦後日本の死と再生のドラマ
<終わりの始まり>
戦後日本に死の宣告を、そこから再生の糸口は始まる

 アメリカでの同時多発テロは「新しい時代」の開始を告げるものとなった。NATOが結成以来はじめて集団的自衛権の適用に踏み切ったことは、従来のような仮想敵国を前提としない危機管理のための新しい安全保障共同体への移行が始まりつつあることを示している。
 わが国が自由・民主主義・市場経済といった価値を共有し、発展させる側に立つのなら、この共同行動に参加しなければならない。そうでなければ、二十一世紀の国際社会で、わが国の位置はなくなることを覚悟すべきだ。
 戦後日本の自由・民主主義は、アメリカを通じて入って来た―これは事実である。そうであるなら、自由や民主主義を守る国際社会の一員としての行動には、日米同盟を通じて参加することから始めることだ。敗戦国の被害者パラダイムや「(対米)自立か従属か」というような心情倫理でしか論じられない「戦後」に幕を閉じる時である。そのうえで、自由・民主主義が「勝者の正義」にとどまらないために何ができるかを必死に考え、行動することである。(「入り口」は対米協力から、そして「出口」は地球益から。)
 確かに、報復と正義は違う。テロの構造的な背景には、いわゆる南北問題=グローバリゼーションの影の悲惨な現実がある。これは断じて「宗教対立」でもなければ、「文明の衝突」でもない。問題は、この悲惨な現実を直視できる責任倫理とは何かが問われている。
 心情倫理からでは「絶望の突撃」にしかならないのは、戦前日本の失敗からも明らかである。その心情倫理には「底なしの無責任」という性癖がへばりついている(都合の悪い事実から目をそらせ、過度な希望的観測にばかり走る、というのは戦前の軍部・革新官僚からバブル後の大蔵省にまで共通する“病”である)。
 心情倫理に流されて責任をあいまいにし続けてきた「戦後日本」に、正面から死を宣告すべき時である。再生はそこからのみ始まる。
 少なくともガイドライン―周辺事態法以来のここ三年ほどの流れが停まっていなければ、今回の事態に際してもこれほどみっともないことにはなっていなかっただろう。どこで停まったのか? 小渕政権から森政権=自公連立である。その淵源は自社さ連立から始まる自民党の延命策であり、それは先送り・その場しのぎ・場当たりの繰り返しであった。
 今こそ、これに幕を降ろすべき時である。そうでなければわが国再生のチャンスは失われる。そして戦後日本の虚ろに死を宣告しうるだけの責任の回復を!(少なくとも事実を事実として直視できるだけの責任倫理を)

 戦後日本とは、焼け野原のなかで与えられた「自由」「民主主義」「平和」「平等」を自らのものとしてきた歴史空間であるが、戦後日本の死と再生のドラマのなかでは、「自由」「民主主義」「平和」「平等」にも新しい風景が見えてくる。
 戦後日本の自由とは、他人に迷惑でなければ何をやってもいいという「カラスの勝手の自由」という以上ではない。パブリックを喪失した自由は、救いようのない無能なエゴへ帰結しつつある。
 平等も「結果の平等」以上ではなく、そこには自立に不可欠な市場や競争は入っていない。そこからは新たな不公正へも転化していく。
 平和とは「反軍事」以上ではなく、したがって国家間の問題を戦争で解決しないための安全保障や外交ゲームは、いっさい視野に入っていない(いわゆる「一国平和主義」)。端的なのは集団的自衛権。本来、集団的自衛権とは一国が自力のみによって自国を守ることが不可能な時代ゆえに、他国との協調・協力に自国の防衛を委ねるという性質のもの(「民主統一」二六七号・中西寛氏講演)にもかかわらず、そのことが完全に抜け落ちたところで「集団的自衛権の是非」を論じるとなっている―日本の常識は世界の非常識。また国家間安保から逃げるために「人間の安全保障」を論じるというのも同様。
 それゆえ民主主義についても、衆愚政治との区別がついていない。主権在民とは「民、重しとす」であるが、問題は歴史の転換の時に多くの場合、世論は誤るということであり、世論が誤った時にそれを正す装置をつくっているかどうか、決定的には、心情倫理は理解するがそれに流されずに責任倫理で判断できるリーダーを育成できる社会かである。このことがなければ、「一億総懺悔」となって責任を問うことはできない。
 戦後日本に死を宣告せよ! そこからのみ再生は始まる! 
 その再生とは、自由・民主主義を「勝者の正義」にとどめることなく、真の意味で人類社会の普遍的価値へ転じてゆく道の先頭に立つということである。その時、日本の日本たる所以である「共生」という価値観が、大きな意味を持つことになる。われわれが、地球共生国家日本と言う所以もここにある。
 自由・民主主義は欧米を軸に発展してきた。そのことによって欧米は近代においては覇者となった。しかし人間が自立した自我を持ち、自分の人生や共同体を自分の意思と責任でつくる、ということはアングロサクソンであれ、アジアであれ、アフリカやイスラムであれ、普遍的に正しいことである。それを手にする過程に、文明や宗教、歴史上の違いがあるだけである。
 自由・民主主義を「勝者の正義」と見なして「被害者パラダイム」でそれに挑んだ近代国家形成の苦渋を(その失敗と克服の道のりを)非欧米圈に伝えることができるのは、わが国である。ここに地球共生国家日本としての活路を賭ける―それこそが、日本再生の道なのである。
 そのためにこそ、戦後日本の疑似「自由」「民主主義」「平和」「平等」に正面から死を宣告しよう。それは、国家観、歴史観、統治意識の確立にほかならない。

改革とは責任を問う革命
選挙による政権交代なくして責任は問えるのか

 選挙による政権交代なくして、民主主義社会で政治の責任をとるということはできない。それがなければ、責任を逃げるために「改革」を唱え、場合によっては「丸投げ」「パックン」で逃げ切ろうということになる。
 例えば、臨時国会では「後方支援新法」が大きな焦点となるだろうが、周辺事態法以来のこの数年、先送り・その場しのぎを重ねてきた責任を問わずして「緊急事態だから」では、スジが通らない。自衛隊は出すべきだし、本来なら集団的自衛権の問題もクリアにすべきであるが、小泉政権が政権交代でない以上、新法を通すなら、歴代政権の先送りの責任を取った上でというのが政党政治の責任論理ではないのか。
 改革とは責任を問う革命である。それまでの政治の責任を問うことなしに、政策転換はありえない。それを問わなければ常に場当たり対応で、ツキハギだらけになる。
 「(マーケットは、小泉政権の「聖域なき構造改革」に対して)なぜ不信感をもっているのか。その理由は、日本がまた、いつもと同じような失敗を繰り返すのではないか、という懸念が拭い去れないことにある。日本はいつも、過去になぜ失敗したのかという事後的な点検が行われないままに、次の政策を展開しようとする。そしていつも矛盾ばかりの政策を展開する」(ポールシェアード/http://www.genron-npo.net)
 責任を問わないための「改革」、責任を逃げるための「転換」では、いかなる信頼も生まれない。不信の連鎖が続くだけである。
 政策の研究は官僚でよい。政治家は政策の責任を問うて(与党なら責任を取って)次の政策を出すことが、官僚との決定的な違いだ。
 だからこそ、政治家は選挙の洗礼(国民の信任)を受けるのであり、心情倫理を理解はしても、絶対にそれに流されない責任倫理で「信を問う」ことができなければならないのだ。それは国家観、歴史観、統治観の確立(総括)なしには難しい。戦後日本とは、これらの完全無欠な欠如であった。
 では、リーダーに責任を問える社会とは何か。そこでは市場が大きな意味を持つ。
 結果の平等から機会の平等へ―改革のスローガンとして、聞き飽きた感もあるが、ここには大きな意味がある。結果の平等は分りやすいが、機会の平等とは「毎回、勝者と敗者がはっきりする」システムなのだ。結果の平等なら「弱者」として説明できた(そのまま救済の対象となりえた)ことが、「負け」を正面から認めなければならないことになる。
 「自分に都合の悪い事実も直視する」という責任意識が、「勝者」のみならず「敗者」(こちらのほうが圧倒的に普通の人の世界)にこそ求められる社会なのである。
 「負け」を正面から認められるためには、都合の悪い事実も直視するだけの責任意識と、それぞれに応じたパブリックへの参加が不可欠である。私的なもの、エゴのぶつかり合いのなかから“新たなる公”を創造していくという過程への参加には、勝者も敗者もない。こうした世界と市場・競争は、対なのである。どちらかが欠ければ、他方も成立しない。パブリックなき戦後日本には、日本型社会主義はあっても正常な市場原理はあったか? 健全な市場原理のないところでは、「負け」の事実を認めないためにツッパル、キレルということになる。
 これでは合理判断はできない。心情倫理を卒業するためには、生活のレベルでの合理判断が少なくとも必要である。その基礎のうえにはじめて「政治は心情ではない。賢明な判断か愚かな判断かというだけだ」、「ウチは代々労働党の支持だけど、国がこういう時にはサッチャーに投票する」という一有権者がうまれる。政権交代の基盤とはこういうことである。それゆえ、合理判断とは単なる目先のソロバン勘定ではなく、パブリックへの参加があってこそ可能なのだ。
 改革とは、責任の回復であり、責任を問う革命なのである。

改革救国政権への道は、責任の回復から
小泉「疑似」改革に問うべきこと

 小泉「疑似」改革に問うべきこと。それは何よりも、こうした責任の回復であり、国会論戦でいえば、歴代政権も含めた与党の責任の明確化である。野党の役割は、あれこれの「対案」を出すことよりも、責任という角度から厳しく与党をチェックすることであり、同じ基準で自らも問われることを恐れないことを示すところからこそ、政権担当能力(信頼感)は生まれる。
 臨時国会の焦点は、「後方支援新法」となるだろうが、「緊急事態」のドサクサにかこつけて、足元の今すぐにでもやらなければならない改革をあいまいにすることは許されない。
●後方支援新法
 事の本質は「米軍の支援」がどこまでできるか、ではない。テロでは日本人も犠牲になっているし、これは自由・民主主義に対する「戦争」である以上、当事者として日本の国と国民をどう守るのか、という問題である。
 集団的自衛権の明確化や有事法制(緊急事態法制)の整備など、課題はとっくに整理されている。それを(政権維持のためだけに!)先送り・その場しのぎにしてきた政治責任を、誰がどう取るのかをあいまいにしたまま、「緊急事態だから」で済ませるわけにはいかない。
 自衛隊は出すべきである。だが、こうした政治責任を明確にしないなら、与党だけでやるべきだ。少なくとも、責任の所在はその限りではっきりする。野党、とくに民主党は金融国会の轍を踏むべきではない。政府提出が予定されている新法は、これまでの憲法解釈や防衛政策の「哲学」部分での変更を内包している。それを「今回限り」で乗り越えてしまう無責任さを問い、戦後日本にケジメをつける側から責任を追及してこそ、政権交代への基盤整備は進む。
●不良債権処理
 「緊急事態」のドタバタで、足元の危機管理をあいまいにはできない。経済の危機管理に疎くては、国家の危機管理はできない。
 問題はここでも、責任の回復である。一九三〇年代、大恐慌後の米国では、経済政策の誤りの責任を問うペコラ委員会があった。大恐慌という「犯意なき過ち」についても責任を問うというはじめての試みであり、これによって確立された市場の規律がアメリカ資本主義の強さの源のひとつとなった。
 バブルの発生から崩壊を「犯意なき過ち」などと言っていては、健全な市場はできない。ましてや今の不良債権と財政赤字は、バブルの後始末から派生したものよりも、「第二の敗戦」以降の失政から派生したものである。「犯意なき過ち」どころか、明確な経営責任・政治責任を問わなかったら、とてつもないモラルハザードになる(なっている)。
 不良債権の処理、それ自身には血税投入もやむをえないだろう。問題はここでも「非常事態だから」で責任をあいまいにさせないということだ。野党は、日本版ペコラ委員会の創設―少なくとも九八年に投入した六〇兆円はどうなったのか、その責任は? を問うことなしに再度の血税投入は認めるべきではない。そして「犯意なき過ち」という厚顔無恥をのさばらせないためには、この間の金融・財政政策責任者である柳沢、宮沢両氏の責任は最低、明らかにすべきである。
(アメリカでは、今回のテロを事前に察知できなかったことをめぐって、すぐに責任の所在も含めた事後点検が開始された。マスコミでは世論の高揚ばかりが伝えられるが、政府中枢はきわめて冷徹に国家戦略を考えている。だからこそ、責任を明確にすることができるのだ)
●特殊法人「改革」
 責任を逃げ切るための特殊法人改革。それはもはや「うまみ」のなくなった部分を処理する―赤字を税金でチャラにするという民営化―ことである。
 まず、赤字の責任をきっちり問うことだ。いつのどういう政策判断で(口利きで)、誰の下でこの赤字ができたのか。赤字のタレ流しを、誰がどういう理由で見て見ぬふりをしてきたのか。破綻した企業なら、経営責任を問わずして再建はありえないのは常識である。
 同時に天下りの禁止を明確にすること。さらには「入り」(国会のチェックを受けない財政投融資や「伏魔殿」と言われる特別会計)と「出」(天下りや公益法人)の両面で、責任が明確になるようにしなければ「改革」とは言えない。
●政権維持のために国策をもてあそぶな
 与党は連立維持のためだけに、選挙制度改悪を提案しようとしている。後方支援法で公明党を納得させるためのバーターと言われても仕方がないような流れである。 
 選挙制度は民主政治の基礎である。それを政権維持の党利党略でいじるというのは、「議論すること自身が恥」(自民党議員)というのが、すくなくともまっとうな感覚ではないか。こういうことを平気でやる政党を、責任政党とは言わない。
 また、わが国の存在が問われるこの時期に、「答弁不能になる」(自民党)という外務大臣を、「国民人気」を理由にそのままにしておく無責任内閣では、この危機は乗り切れない。
 
 こうしたことを明確にしない「改革」は、「疑似」どころか最悪・亡国の責任逃れであろう。
 今こそ、自民党に替わる責任ある国民政党―改革保守の国民政党をつくりだすことを、国民自身が真剣に考える時である。
 平成の草莽崛起を!