日本再生 280号(民主統一改題10号) 2002/8/1発行

日本再生への自信、平成の開国倒幕への覚悟を語ろう
われわれの政権交代戦略(2)

生まれつつある国民主権の波を、政権交代の基盤へと成熟させよう

 政権交代なくして改革なし。今国会の総括は、このことにつきる。四十二日間の会期延長をしたものの、めぼしい「成果」といえば衆参とも委員会で強行採決した健康保険法改正(サラリーマンの本人負担を三割に)と、郵政公社化法(中身は規制強化と「公社」肥大化へ道を開くもの)くらいのもの。首相が五十万円のワインを三本空けてはしゃげば、「重要法案」を審議する委員会は、与党議員の欠席の多さに何度も中断する始末。まさに総無責任連鎖の底なし沼である。
 この対極に、国民のなかには主権者意識への自覚が確実に蓄積されている。これだけ無責任連鎖がはびこるなかでも、社会や企業が崩壊していないのは、フォロワーとしては自己責任を果たしてきたという人たちが、「持ち場」を意識し始めているからである。「政権交代? 誰かやってくれないか」という他力本願の願望から、「政権交代しなきゃダメだ、そのために何をすればいいのか?」へと、有権者のウォンツは明確に深化しつつある。
 自分のメシは自分で食ってきた(政治に口利きを求めなくても、自分のメシくらいは自力で食ってきた)という自己責任が意識されているからこそ、ムネオ問題に代表される政官業の癒着に対する視線は、かつてなく厳しいものとなった。それは転じて、「政治に口利きを求めない人たちが自分たちの代表をつくる」責任までを自他に問う会話へと、発展しつつある。
 政党政治の文化がないわが国では、社会の変化が先行する。例えば長野県知事選挙(九月一日投票)。第一幕は、県議会の田中県知事への不信任可決。知事としての統治能力は別として、田中氏は選挙時の公約を実現しようとしたのであり、県議会の不信任はそれに対する政策上の批判でないのは明らかであった。そのうえ、県民に(田中県政に代わるべき)選択肢を示すという肝心の責任は、きれいに抜けていた。(長年、天下り知事をいただいてきた県議会には「候補者擁立」ということ自体が、予想外のこと。)国民主権の論理では、県議会に理がないのは明らかであった。
 続く第二幕では、国民主権の初歩が分っていない県議会に、出番がないのは当然である。ここでは「市民派」を名乗る候補が複数立つ模様である。いずれも田中前知事の「問題提起」には一定の理解を示しつつ、「手法」における違いを争点とすることになりそうだ。第二幕のポイントは、既存の政治勢力による根回しや候補者調整といった旧来のプロセスがほぼ、効かなくなったことである。
 この傾向は、各地の首長選挙でもうかがえる。既得権の利益分配をめぐる候補者選びの圏外で、いわば自己責任で立候補する―政党の動向は後からついてくる―というタイプの候補者が、場合によっては接戦を制している。自己責任でというのは、天下りやら二世やら禅譲やらで「お膳立て」してもらってということではなく、何の準備もないが人生の選択として、何がしかの資金を自力で準備し、家族を説得しというぐらいは自己責任でやったうえで、ということである。
 こうした自己責任の行動が、何がしかの社会的波及力になり、手弁当で仲間が集まる。投票率が上がるなら、政治を変えるための小さき一石になりうる、ということが始まっている。選挙では負けても、「次にむけて」何かを続けようというウォンツは脈々と残る。そうした動きの後からついてこれるかどうか―ここで既存政党は、国民主権の感性があるかどうかが判断される。政官業の癒着では、理解することさえできない(潰す力もほぼないが)。
 「変えたい、変わろう、変えよう」を願望としてではなく、自己責任で実践するところから、国民主権の小さき自信と確信が生まれつつある。それを政治組織表現にまで集積するべく「半歩先」を歩むことができるかが、国民主権の活動家に問われる実践能力ということになる。
 この生まれつつある国民主権の波を、政権交代の基盤へとさらに発展させることこそ、今秋の攻防の環にほかならない。一方には内閣改造人事―政官業癒着の権力構造の延命策のアレコレ、他方には民主党代表選挙、さらには補欠選挙(10月27日投票)という政治日程は、その組織戦にほかならない。この攻防を国民主権の成熟へ集約すべく、「がんばろう、日本!」国民協議会第二回全国大会も開催される(10月27日)。
 機能不全に陥った自民党には、もはや打つ手はない。人材もカードも本当にないからこそ、「石原慎太郎待望論」がまことしやかに語られる。小泉も「抵抗勢力」も「チキン・ゲーム」のように身動きがとれない(御厨貴「小泉・自民党政権の機能不全」『論座八月号』)なかでの人事であり、補選である。
 一方の民主党はどうか。「民主党に分裂のメリットは全くない。だから、自民党同様に『戦国史』といわれるほど激しく争えばいい。党にはプラスになる。どういうリーダー、役割が求められているか、切磋琢磨するチャンスにすればいい」(成田憲彦・駿河台大教授 産経7/28)。「政権が視野に入って、民主党は『争うと割れる』段階は過ぎた。代表選を華々しくやった後には党をまとめ、結果を受け入れるフェアプレー精神を身に着けられれば民主党は変わる。〜党の足腰を鍛えるという意味でも、“新製品”をだすべきだ」(飯尾潤・政策研究大学院大教授 前同)
 国民主権をさらに発展させるリーダーシップ、政官業癒着の権力と戦うエネルギー、日本再生のビジョンなどをめぐって、「組織内論理」にとらわれない、小泉「疑似」国民投票をしのぐほどの国民に開かれた選挙戦を展開すべきだ。若手候補がでれば、その絶好のチャンスとなる。その原動力は、「第一期民主党の総括」と「第二期民主党のビジョン」ということになるだろう。
 「第一期民主党の総括」とは、とりもなおさず、国民主権・政党政治の確立の観点から、細川政権以降を総括するということである。自己責任の自覚はあるという国民には、フォロワーとしての準備は整いつつある。それに対して細川政権以降の総括を、国民主権・政党政治の確立の観点から提起できるかが、次の改革のリーダーの基準となろう。同時に細川から小泉までの総括を、政治のマネジメント能力(統治能力)とは何かとして語れるかを、次のリーダーの評価基準として示すべきだろう。(自己責任の延長には、パブリックの統治責任意識は生まれない。統治責任意識をめぐって行われてこそ、リーダーをめぐる主体論議・総括論議となりうる)。
 日本新党の結成と解散、細川政権の顛末と自社さ政権および新進党という紆余曲折は、ひとことで言えば、きちんとした国民政党による政権交代でしか、政官業癒着の構造は変えられないということである。国民主権に立脚しない、「永田町の都合」や数合わせ、組み替えでは、どんな「改革」を掲げた政権でも変わらない。
 そして細川政権から小泉政権までが直面した課題―すなわち官僚叩きではない真の意味での政治改革―政策を決める政治の仕組みを変えること(政治の構造改革)、その基礎たる透明性とアカウンタビリティー、責任と信頼をいかに実践してきたのか、これから実践していくのかということである。
 それは政治に口利きを求めない人々に、自分たちの代表をつくるために自己責任で、ヒト、カネ、情報を投入して基盤整備をともに担うまでの責任と信頼(政党政治の政治文化)を問うすべをもつということでもある。そういう支持基盤を自力でつくってきたという共通の基盤のうえにこそ、「第一期民主党の総括」と「第二期民主党のビジョン」を語り合う同志関係は形成される。そこから日本再生のチームが編成され、ポジションが見えてくる。
 民主党代表選をこのような構図で展開できるなら、政権交代のパワーは確実にチャージされる。
 五議席(衆院三、参院二)を争う十月の補欠選挙も、大きな変数となりうる。ここでも選挙結果と同時に、どういうプロセスで候補者を選ぶかが大きなポイントになる。党内事情を優先させて身内の論理で決めるのか、永田町の根回しで決めるのか、それとも国民主権に開かれた論理で決められるか。国民主権に開かれた論理で候補者を決められるなら、来年春の統一地方選挙でも、国政選挙には行くが(当然、自民党には投票しない)地元の選挙には行かない」という人たちを動かす選挙戦(候補者・支持者の構造)が見えてくるはずだ。
 政党政治の文化がないということは、自己責任は分っているという人たちでも、「第二の経済敗戦」以降なら国政選挙にはようやく行くようになったが、自治体選挙では利権がミエミエだから行かないというほうが「見識が高い」と思っている。だがそれではいつまでたっても、政治は「生き残りをかけた利権分捕り合戦」のままである。それを変えるために、身近なところからヒト、カネ、情報を投入して、政権交代のインフラ整備のためのコストを分け合う―そういう政治文化をつくりだそう。

平成の開国倒幕を

 カナダで開催されたカナナスキス・サミットは、ロシアを正式メンバーとすることで、「ポスト冷戦後」の世界の幕開けを象徴した。いまやロシアはアメリカ(およびNATO)のパートナーと位置付けられた。そして「反テロ」「テロ封じ込め」を掲げるアメリカの単独主義とどう付き合うかが、各国・地域にとっての重要な戦略的テーマとなりつつある。
 わが国にとっては、日米同盟の再設計と失政十五年の総括が決定的なカギとなるステージであり、ここで平成の開国倒幕―政権交代が問われている。開国とは日米同盟の再設計と、アジアに向き合い、東アジアの共生・統合ビジョンを持つことであり、倒幕とは「失政十五年」に端的なように、それができない基盤=政官業癒着の権力を倒すことである。
 東アジアの共生・統合ビジョンを持つために、わが国は日韓自由貿易へ覚悟を固めることである。それが生み出すチャンスは、日本再生にとっても、日米同盟の再設計にとっても、また東アジアの未来にとっても計り知れないほど大きなものがある(本号5―10面・深川氏の講演を参照)。その政治決断を妨げる既得権=政官業癒着の権力を倒すことこそ倒幕であり、その力たる平成の草莽崛起こそ、国民主権にほかならない。
 日本の国際競争力の評価は年々低下する一方だが、足を引っ張っているのは「政治」である。政治が変われば―国民主権の力で政権交代をすれば、基礎体力はまだ十分ある。
 日本再生への自信、平成の開国倒幕への覚悟を語ろう!