日本再生 288号(民主統一改題18号) 2003/4/1発行

小泉政権の“終わりの始まり”
さらば、無責任国家・依存の国民
国際社会の責任ある一員・主権者への脱皮の時

さあ跳べ、ここがロドォスだ!

「やむをえない戦争」を超えて

 イラク戦争が始まった。ついに小泉総理は、ブッシュ大統領が事実上の宣戦布告をするまで、わが国の方針を明らかにしなかった(それも国会本会議の時間中、国会をそっちのけで、いわゆる「ぶらさがり」と言われる記者とのやりとりのなかで述べた)。政府が説明責任を果たしていないことは明らかであり、これではいくら「自主的に決めた」と言っても、「米国に追従することを『自主的に決めた』」としか言いようがない。
 だが、開戦後の新聞各紙の世論調査では、(自民党が心配していたほど)小泉内閣の支持率は下がっていないし、米国支持についても「やむをえない」が六割(読売)となっている。これはなにを意味しているのか。「対米追従」批判で自主性・主体性が獲得されるわけではないというところまでは、世論は成熟しているということだ。この世論の成熟に見合うだけの論戦が政治の場で展開されていない、ということだけが問題なのである。
 「戦争は絶対悪、平和は絶対善」と徹底した平和主義をとってきた戦後日本が「やむを得ない戦争もある」というのは国策の大転換であり、「特殊な国」から「普通の国」への半歩前進ではある。この「半歩前進」を思考停止からの脱却への契機とするのか、総無責任連鎖の崩落に突き進むのか。
 「戦争か平和かという二元論は、イラク問題を考えるときに、思考停止を誘うものです。重要なのは、外交手段として戦争を選択するのか、あるいは別の外交手段を探すのかということでしょう」と、村上龍氏は自身のメールマガジンで述べている(JMM,211/03.02.24)。「北朝鮮があるから日本はアメリカを支持するしかない」というのも、同じような思考停止の論理である。それが「現実的」な論理であるかのように聞こえる空間は、もはや永田町の一部にしかないにも関わらず、それが政策決定の場を独占していること。ここにすべての問題がある。
 いずれにせよ、われわれはルビコンを渡ったのである。戦後日本を「特殊な国」たらしめていた環境条件は、いまや最終的に失われたのだ。
 「特殊な国」の条件はまず、グローバル化の“光”との関係で奪われた。八五年プラザ合意はその象徴だろう。国際金融の世界における「戦後日本」への特別扱いは終わり、金融主権の確立にわが国は失敗した。続いて冷戦後のグローバル市場化のなかで、「戦後日本」の特殊性が奪われ、モノづくりを基盤とした産業構造転換にも失敗した。そして今、グローバル化の“影”(大量破壊兵器や「ならず者国家」やテロ集団)との関係から、「戦後日本」の特殊性が奪われようとしている。
 これを正面から受け止めよう。五十五年体制の思考停止―「対米従属か自立か」「日米安保か自主防衛か」「日米基軸か多国間安保か」等―を超えた、外交・防衛・安保をめぐる「まっとうな」政策論議の場を創りだすこと。それが主権者に問われる責務だ。「やむを得ない」戦争とは、こうした政策論議を尽くした後にのみ、はじめて言いうることである。
 議論の土俵を完全に転換すべき時である。われわれは、こう問うべきだろう。
 「日米安保の奇形性を正面から問わずして新たな『戦後』はありうるか」と。そして「『北東アジアでアメリカの単独行動主義とどう付き合うか』を問わずして、わが国の国益はありうるのか」と。

北東アジアでアメリカの単独行動主義とどう付き合うか
わが国の国益と日米同盟の再設計を正面から語りきる主体性を獲得しよう

 この戦争では、国連と日米同盟の関係をどうするのかが問われた(問われている)。国連重視と日米基軸は、戦後日本外交の根幹だ。それが問われている。開戦では日米安保重視、戦後復興は国連重視というようなノーテンキでは、イラク戦後の国際社会に存在感さえ失うことになる。
 戦争に至る過程で国際社会が大きく対立したのは、イラクについてではない(「アメリカとイラク、どちらが正しいのか」という問題設定は、思考停止以外のなにものでもない)。イラクが問題であることについて、国際社会の合意はあった。対立の根幹はイラクではなく、国際政治の基本的な枠組みについてである。すなわち、大量破壊兵器や「ならず者国家」あるいは「破綻国家」、テロといったグローバル化の“影” をいかに再統治するのかという問題である。
 「民主帝国」アメリカの単独行動主義、先制行動―これによってグローバル化の“影”を再統治することは可能なのか、それともこれは「地獄の扉を開ける」ことにつながるのか。(日本以外の)反戦世論の根強さは、単なる情緒的な平和主義だけではなく、後者のリスクに対する懸念に根ざしたものである。
 「北朝鮮問題があるからアメリカを支持する以外にない」という論理では、こうした国際政治の基本的な構造、そこにおける主体性をどうもつのかということはいっさい見えてこない。それでは「国益」を、狭い利己的な利害としてしか説明できない。国際政治の基本的問題について発言する意思も能力ももたないもの(国家)が、「国際社会に名誉ある地位を占める」ことなど、できようはずがないのは当然である。
 百歩譲ってみよう。北朝鮮問題は、わが国の安全にとって死活的な問題である。その北朝鮮に対して、アメリカがイラクに対するのと同様なアプローチをとった場合、わが国はどうするのか。その時のわが国の「国益」とは何なのか。(アメリカは現在のところ、北朝鮮については多国間の枠組みでの問題解決を優先している。しかし軍事的オプションはつねに選択肢にはいっている。なによりも、「『ならず者国家』への先制攻撃」は、政権の戦略であって対イラク戦争のみの戦術ではない。)
 この問題を正面から考え抜くことなしに、「北朝鮮問題があるからアメリカを支持する以外にない」というのは、思考停止を超えた無責任の極みである。ここにあるのは、自国の死活的な安全保障についてさえ自力で考え抜こうとせず、ただただ「守ってもらおう」という亡国腑抜け無責任根性にほかならない。
 われわれはこう問うべきである。
 「北東アジアでアメリカの単独行動主義とどう付き合うか」と。そしてそのために、「わが国の国益と日米同盟の再設計を正面から語りきる主体性を獲得しよう」と。
 「北朝鮮問題があるからアメリカを支持する以外にない」というのと同様に、「アメリカの単独行動主義に賛成か反対か」というのも思考停止にほかならない。問われているのは「アメリカにノーと言えるかどうか」ではない。それが「主体性」だと勘違いしていられた戦後日本の特殊性そのものが、完全に過去のものとなったのだ。
 「北東アジアでアメリカの単独行動主義とどう付き合うか」。「反米」でもなく「追従」でもなく、「どう付き合うか」である。それには、確固とした自画像と国益について国民自身が主権者として論じ、合意形成しなければならない。そういう国民主権の成熟が求められている。
 第46回定例講演会(「わが国をとりまく外交環境」)で、添谷・慶応大学教授は以下のような趣旨を述べている。アメリカの議会やマスコミで「日本核武装論」が出てくる背景は、日本が国際社会における適正な位置付けを獲得していないという現実の表れである。何を考え、どういう対外政策をやろうとしているのかの確定ができないから、潜在的な不信感がある。したがって日本については「無視」するか、「危険な存在」として取り上げるか、どちらかになってしまう、と。
 「北朝鮮に対抗して核武装する日本」という道をとることはできない。「特殊な国」から「核をもった普通の国」になればその瞬間、わが国は東アジアで完全に孤立し、アメリカとの関係は破綻する。自由、民主主義、開かれた市場経済などによって説明できる「普通の国」になる道は、「『民主帝国』アメリカと、北東アジアでどう付き合うか」という問いのなかからのみ見出せる。そこからこそ日中関係の再設計、日韓パートナーシップの構築などの道すじも見えてくる。
 北朝鮮問題についていえばそれは、「イラク後」のアメリカの対北朝鮮政策を方向づける地域枠組みの構築である。すでにEUは日本、韓国を含めた北朝鮮問題についての外相会議を呼びかけている。北朝鮮の核開発が「カード」に止まるものなのか、核開発そのものを目的とするところまで突き進むのかは不確定だが、より挑発的な行動に出ることを抑えるためにも、周辺諸国の緊密な協調はイラク以上に不可欠である。
 とくに日米韓の協調の枠組みを再構築すること、そのために日韓関係を深化させることは、わが国の死活的命題である。同時に中国、ロシアにも北朝鮮への影響力行使を要請し、協調の場を作っておくことが重要だ。これらについても、日韓が共同行動できることが上策であることは言うまでもない。
 その条件は準備されつつある。またその扉を開くことなしに、わが国の国益は確保できない。それをできる政府を創りだす力こそが、主権者には求められている。政権交代とはそのことだ。
 「民主帝国」アプローチだけで、グローバル化の“影”を再統治することはできない。問題は、「帝国」の力を方向づけることができるような地域的枠組みであり、地域外交の力である。北東アジアほど、米国の軍事力と地域外交の枠組みを組み合わせて問題を解決する努力が必要な地域はない。そしてそこに、わが国の死活的国益がかかっているのである。 
 北朝鮮の脅威は、ある意味ではイラクよりも深刻である。同時にイラクと同様の武力行使が行われれば、この地域に深刻な不安定化を引き起こすことになる。北東アジアにおいて、「イラク」とは異なる方法で問題を解決することができるのか。日米同盟の再設計とは何よりも、この問題である。
 わが国の国益と日米同盟の再設計を正面から語りきる主体性を獲得しよう。
 そのためには一方で、わが国防衛力の「適正な」ありかたを合意形成しなければならない。同時に、東アジアの共通の利益から築かれる経済統合ビジョンや地域安保協力ビジョンなどの地域戦略を持たねばならない。ここから、中国との付き合い方も再設計していかなければならない。この地域戦略のなかで、日韓の真の意味でのパートナーシップを構築していかなければならない。

日米安保の奇形性を正面から問わずして、
新たな『戦後』はありえるか
―日米新安保条約提唱の糸口を―

 「北朝鮮問題があるからアメリカを支持する以外にない」という思考停止が、あたかも「現実的」に思える理由のひとつは、「北朝鮮有事のときに、日本は何をするのか」を問えば分かる。第47回定例講演会で前原誠司・衆院議員は、アーミテージ国務副長官とのやりとりを紹介してこう述べている。
 「日本にはパワープロジェクション能力(機動打撃力)がないのです。ニクソン政権のときに日米間で「盾と矛」という役割分担を決めて、盾の役割―大規模な着上陸侵攻を水際で阻止する能力―を自衛隊は持ち、相手を叩く能力、相手の第二撃を阻止する能力(矛)は日米安保条約に基づきアメリカに任せると、一九六九年からずっとその考え方できているんです(参照「わが国の防衛を考える」/「日本再生」二七九号掲載)。つまり相手のミサイル発射基地を叩く能力は、今の自衛隊にはありません」と。
 これはよく言われる「日米安保条約の片務性」(アメリカは日本防衛の義務を負うが、日本はアメリカ防衛の義務を負わない)という話ではない。前原議員も講演で強調しているように、アメリカの日本防衛と日本の基地提供・ホストネーションサポートによって日米のバランスはとれている。在日米軍基地は、中東までをカバーする米軍の戦略展開に不可欠の存在であり、在韓米軍とは意味が違う。
 「片務性」ではなく「奇形性」を問わねばならない。同講演でも繰り返し述べられているように、かつての「盾と矛」という日米の役割分担が意味をなさなくなっている以上、わが国も自衛権の範囲での「適正な」攻撃能力をもつことは当然であり、政治の場をそれを正面から議論できるものに入れ替えなければならないのである。(自衛権の範囲での攻撃能力をもつことについての論点は、前原議員の講演/本号11―16面ならびに政策ブックレット10「地に足をつけた防衛・安全保障政策論議を」参照。)
 「日米安保条約が抑止力。日本は専守防衛に徹する」という思考停止のおまじないは突き詰めていけば、攻撃力を持つ日本は信用できないが、アメリカの攻撃力なら信用するということになる。なにが抑止力なのか、なにが専守防衛なのか。「国防」という言葉さえ忘れる「特殊な国」から、自国の防衛を事実に基づいて正面から論じられる主権者がつくる「普通の国」へ脱皮すべき時である。
 イラク戦争では横須賀を母港とする空母キティホークが、最前線での攻撃を行っている。これはベトナム戦争以来のことだ。この問題について前原議員は国会で、在日米軍の存在根拠である「日本および極東の安全」という「極東」の範囲を越えるものではないかと、厳しく質した。政府側答弁はおそまつ極まりないものであったが、六十年の安保改定以来まがりなりにも積み重ねてきた「極東の範囲」をめぐる論議が、ものの見事にチャラにされたことだけは確かだ。
 九六年の日米共同宣言で、日米同盟を東アジア安定の公共財とすると「再定義」はしたが、それを実体化できないままに、周辺事態法でつじつま合わせの余地がなくなり(「周辺」と「極東」の定義づけのこねくり回し)、アフガンでは「テロ特措法」で対応せざるをえなくなった。この過程をチャラにせずに、「特殊な国」から「普通の国」へ脱皮していく過渡的な過程としうるためには、「次の方向」が必要である。
 それは前述した日米同盟の再設計であり、その方向を実現しうるための日米新安保条約の提唱である。そこには地域の安全保障に対する日米の責務、役割とともに、わが国の「適正な」国防のあり方が規定されねばならず、地位協定の抜本的な改定も必要である。そのような戦略対話ができるところまで、日米同盟を成熟させる。それを支えるのは、責任ある主権者の力である。

住民主権・国民主権の政治文化へ
基礎からの入れ替え戦を

 四月は統一自治体選挙が行われる。政党政治と議院内閣制の機能を確立させることを置き去りにした「政界再編」=政治改革の混乱を脱するとば口を開けられるかは、基盤のところから国民主権・住民主権の政治文化への入れ替え戦に火がつけられるかということと連動している。
 言い換えれば、機能停止した既存政党・政治とは別のところに、新たな政治市場を開くことである。改革派知事を軸に、マニフェスト(政策綱領/期限、財源、手法、優先順位などを明記した体系的な公約集)による有権者との「契約」という選挙―政治文化の入れ替えも試みられている。
 自己決定できなければ、個人も国も依存するしかない。「反米か従属か」「アメリカにノーといえるか」というレベルで「自立」や「主体性」を論じたつもりになっているようでは、日米同盟再設計を正面から論じる主権者の主体的責任は生まれようはずがない。住民自治・自己決定が機能していないところに、かような主権者は生まれない。
 政官業の癒着を支える「依存と分配」の政治文化を、国民主権・住民主権の政治文化に入れ替えるよう。自らの自治体から国のありようまでを自己決定できる主権者を育成しよう。自己決定(選択)してこそ、責任意識が生まれ、だからこそ連帯ができる。自己決定がないところには依存しか生まれない。
 統一自治体選挙にあたっては、以下のような基準から候補者を格付けし、自分自身の選択に最低四年間は責任を持って、次の時に「よりよい」選択ができるように提唱する。
【自治体選挙にあたって、候補者をどう「格付け」するか】
 第一に「自立」した候補者であるか。税金をもらって政治活動をする以上、「何をどのようにする」ということが、裏付け(優先順位、財源、手法、期限など)を伴って検証可能な「契約」として明らかにされていることが必要。
 首長候補であれば「マニフェスト」という形にまとめられているのが望ましい。同時に、有権者にはそれを読みこなして判断する能力が要求されることになる。
 議員候補の場合にはとくに、地方自治が二元代表制であることにふさわしいだけの行政へのチェック能力が問われる。地方議会で「与党」などと言っているのは論外。また「悪いこと(カネやスキャンダル)もしないが、いいこともしない」という議員は、有権者に業績評価材料を与えないという意味では最悪。「メシのタネ」として議員をやっているのでは、税金へのぶら下がりである。
 第二に、住民参加や情報公開について、住民の自己決定のツールとして提起しているか。このご時世でこうした言葉さえ出てこない選挙は、バラマキ型以外の何ものでもないが、住民参加や情報公開を行政の都合からではなく、「徹底して」「聖域なく」行っている(行おうとしている)か。例えば、補助金の配分や人事・採用といった行政の権限の「本丸」や、あるいは決定過程の公開は当然のことで、政策のタネの段階(要望の段階)から公開する(結果として「口利き」も公開対象になる)ところまで踏み込むか。
 こうした住民参加の徹底化は同時に市民には、「自分の要望を行政が聞いてくれるのが住民参加」というレベルから、異なる意見・利害の住民同士が合意形成する自治能力を高めることを要求することになる。
 第三に、財政である。首長の場合は財政運営能力があるか、議員の場合は財政運営をチェックする能力があるか。自治体の財政は厳しい。新たな施策を並べる候補は、それだけで失格である。「これをやる」という場合は必ず「どこを削る」という話がなければならない。団塊の世代の職員が大量に退職期を迎えるのはもうすぐだ。その退職金が払えない自治体も少なくない。目の前の危機について何も言わない首長に四年間を任せることはできない。
 こうした点について、積極的に候補者に問うてみよう。候補者の一方的な呼びかけだけではく、身近な自治体選挙こそ双方向性で行おう。
(参照/福嶋・我孫子市長と田中・中野区長の「講演会」、石川・稲城市長のインタビュー/
いずれも「日本再生」二八七号掲載)