日本再生 290号(民主統一改題20号) 2003/6/1発行

国民主権の政治市場をさらに発展させ、
経世済民・日本再生のマニフェストをつくりあげる国民運動を

責任の転換のドラマが始まった

 有事関連法の修正協議が与野党(自民・民主)間でまとまったことは、「戦後」の画期といえる。それを可能にしたのは、「やむをえない戦争もある」という国民意識の成熟である。それは単純に、「北朝鮮危機」といった目先の「外圧」によるものではない。この統一地方選において、「破綻寸前の自治体財政の現状を直視できる責任意識と、戦争を直視できる責任意識は通底している」というよびかけが有権者にストンと落ちたように、「疑似」主権者からホンモノの主権者への〈責任の転換〉が始まったこと、ここに事態の本質がある。
 そして、このような主権者の成熟を政治権力闘争として組織表現できる者が、永田町にチームとして確立されつつあること。これが、民主党の問題設定を自民党が呑む形で修正協議がまとまったことの意味であり、この問題を政争にからめて扱う(民主党の足並みの乱れを誘う、など)道を断つことを可能にしたのである。
 民主党の問題設定は、国民保護法制の重視と「有事における基本的人権の担保」「民主的統制」(国会の関与など)についてである。このことと、わが国に照準を合わせたミサイルが発射されようとしている時に、その発射基地を叩く能力=敵地攻撃能力を持つことや「ミサイル防衛」など、現実の安全保障・国防上の政策論議に踏み込むこととは、なんら矛盾していない。そういう新しい土俵が拓けたのである。「疑似」主権者からホンモノの主権者への〈責任の転換〉が始まる前と後とでは、論議の土俵は大きく変わる。
 敵地攻撃能力を持つことについての前原議員の質問に対して、「検討に値する」と述べた石破防衛庁長官の答弁は、すぐに内閣によって否定された。憲法九条、専守防衛という名の下での思考停止の病は今日、総無責任連鎖から死に至る病である。国民から付託された権力を適正に行使しない政府・政権に、「国民の生命財産を守る」という国家の最低限の責務を履行できようはずがない。
 権力を発動しない誤り(無責任連鎖)から、権力の発動のルール化・責任のルール化へ。この〈責任の転換〉のとば口が開いた。
 「有事における基本的人権の担保」について、「憲法にあるからそれでいい」ではなく「個別法にも書き込むべき」という立場は、権力の発動に自ら責任をいかに負うか―権力の発動にかかわる透明性とアカウンタビリティーの意識性―なしには提起しえない。それは「経済有事」についても同様である。
 「依存と分配」の世界からは、必要なときに適正に権力を行使するという統治の責任意識は生まれない。無責任連鎖だけが肥大化してゆく。りそな銀行に対する公的資金の注入は、これで三度目になる。過去二回の対策の検証もないまま、「破綻ではなく再生だ」と強弁して行われる対策では、自己責任すら破壊されてゆく。(目先の「○○対策」を繰り返して市場規律を歪め続けた結果、株価は戦後の平均値である八五〇〇円を下回ったままである。長期に保有していればリターンがあるという株式市場の前提が成り立たない世界では、年金や保険といった市場経済を前提にした自己責任の生活設計が成り立たないことになる。)
 権力の発動に関わる責任。それは自己責任の延長にはない。そこには責任の転換のドラマが伴う。権力を発動しない誤り=総無責任連鎖に代わりうるのは、権力の発動に関わる責任を問える主権者(リーダーとフォロワー)である。政権担当能力は、ここで試されている。
 その意味では、民主党の「バラバラ感」よりも自民党の「バラバラ感」のほうが、罪が重い。民主党の「バラバラ感」は今回の修正協議をまとめたことによって、「党内の意見の幅は国民の意見の幅と同じ程度のもので、十分まとめられる」(岡田幹事長)ことがあきらかになった。「依存と分配」の政治文化と戦いながら、一歩一歩新しい政治文化を築いてくるなかから蓄積された統治能力があれば、国民内部の意見の幅は常識の線でまとめられるし、それによって党内は紀律化できるということである。逆に言えば、それに収まらない部分は、国民主権の政治文化からはみ出したシロモノであるということになる。
 五十五年体制の政治文化・組織体質・戦術観(権力闘争、政局観)から揺さぶられてもぶれないだけの、国民主権の政党的コアが見え始めてきたということである。
 自民党の「バラバラ感」はいきつくところ、権力を発動しない誤りであり、その結果、私欲・私怨が公的領域を占拠しつくしているという問題である。地方分権や特区をめぐる閣内のイザコザしかり、道路公団改革の骨抜きしかり、「経済有事」に対する当事者意識の欠如しかり、外務省のていたらくしかり。
 日米首脳会談で北朝鮮に対して「対話と圧力」で臨むと確認したことについて、外務審議官が「圧力」を応答要領から外していた問題は、百歩譲って、いろいろ意見はあってもよいが、首脳会談で決まったらその方向で一致して動くというのはアレコレ言う前に組織の原則であり、それができないなら辞表を出すのがスジである。問題はそういう組織文化・紀律化ができる―自らにそれを課していることは当然―のは、どういう政党・政権なのか。ここで政権担当能力を問うすべを手にしなければならない。

政権交代へのシナリオ、
国民主権の権力闘争のドラマ

 民主党と自由党の合流が白紙になった。合流に対する国民の期待が盛り上がらない以上、当然のことだろう。選挙で政権交代というからには(永田町内部の合従連衡でない以上)、それは主権者を巻き込んだ権力闘争のドラマでなければならない。それが、依存と分配の政治・政権に代わる新たな政治・政権をつくるというドラマである以上、開始された主権者の〈責任の転換のドラマ〉と連動したシナリオでなければ、舞台の幕は上がらない。
 統一地方選では、マニフェストという言葉が市民権を得た。次期総選挙では、マニフェストを掲げた政党かどうかが、有権者の判断基準のひとつ―高いポイントのひとつ―になるだろう。自覚的な有権者はもはや、政党か無党派かでは見ていない。有権者に直接政策を訴えて契約する〈責任論理〉があるのかどうか―この潜在的需要があるからこそ、マニフェストという言葉が一気に拡がったのである。
(マニフェスト:政策の数値目標や達成期間、財源などを明示した選挙公約。政党政治が成熟した欧米では定着しており、イギリスでは政治理念も明記している)
 政策・公約によって自己を紀律化する。これは政党の基本である。だからこそ、マニフェストの問題は、既存の政党(公約が意味をなさない世界)をバイパスして、新しい政党政治の市場をつくる、そのインフラ整備の問題に直結する。
 「政権をめざして政党をつくっては壊し」という政界再編の病では、政界再編を繰り返すほど、政権交代可能な二大政党制に近づくのではなく、野党から与党への政党間移動になる。このなかで「政治不信・政党不信」、そのコインの裏表としての「国民不信」(国民は危機感がない等)に止まったのか、国民主権の政治文化を一歩一歩蓄積してきたのか。この違いが、有権者のなかにも永田町のなかにも明確に走っている。
 国民主権のインフラ整備の下準備とは、「政治に口利きや利権を求めない人が、(利権政治を批判するだけではなく)自分たちの代表をつくるために政治参加することだ」と訴え続け、その組織戦を一歩一歩積み重ねてきた戦いである。これと、「国民は遅れている(危機意識がない)から地道に訴えるしかない」というのでは、百八十度ベクトルが違う。口で「政官業の癒着批判」「政権交代」ということが、これだけの行動・組織表現の違いとして明らかになってきている。「政官業の癒着批判」「政権交代」を、自己責任さえクリアしていない部分に向かって訴えるのと、自己責任・自己労働はクリアしている人たちに「主権者の務め」を訴えるのとでは、意味が全く違う。国民主権の政治市場のとば口が開いたとは、こういう違いが鮮明になったということでもある。
 この差は、マニフェストに対する差としても表われる。政党の組織文化(公約による政党と有権者の紀律化)としてまでとらえているのか、あるいはこれまでの「公約」(スローガンの羅列)の延長でとらえているのか、それとも「そもそも意味を見出さない」のか。
 政権交代を目指すうえで今必要なのは、こうした国民主権の政治文化を政党の組織文化としてまで確立し、その原則で権力闘争をやりきる―主権者が参加した権力闘争のドラマを演じきる―確信とパワーである。
 権力闘争、政権奪取は、最後は数の勝負である。しかし肝心な問題は、そこまでの段取りや戦術判断を国民主権の論理や価値観で説明しきれるかということだ。いざとなると理念や政策が「きれいごと」「建前」になってとんでしまう、というのでは五十五年体制の体質と同根ということになる。「野党に政権担当能力があろうとなかろうと、一度政権を変える。そこから改革が始まる」というのでは、主権者不在の権力ゲームにしかならない。
 今国会では、国対という五十五年体制の政治文化・体質がもっとも色濃く残っていた分野も、国民主権のウォンツ・政策から説明できる戦術の判断基準で運営されるところまできた(二八九号・野田佳彦国対委員長インタビュー。二八八号・平岡秀夫議員「囲む会」などを参照)。国民主権の政治文化は、かくして組織表現にまで成熟しつつある。
 また選挙による政権交代が、クーデターや階級闘争の権力奪取と決定的に違うのは、単なる政権の首のすげ替えではなく、「こう変える」という政策の支持基盤とそのチームをつくる組織戦の蓄積を伴う点である。こういう社会をつくる、そのために税制はこう、社会保障はこう、安全保障はこうと、社会的ウォンツから政策論戦を練り上げるチームを準備することが伴わなかったら、マニフェストは単なるスローガンでしかない。
 「こう変える」という政策を直接有権者に訴え、その支持基盤をつくる(政策で信頼関係をつくる)ことが伴わなければ、イザという時に政策は「きれいごと」にすぎなくなる。こうした戦いの蓄積が分からない度合いに応じて、有権者も政治家も「とはいっても(どんな立派な政策でも)結局、政権をとらなければ何にもならない」ということになる。そこで実際の組織活動では、政策は二の次、三の次ということになる。
 こうしたところでは、政策の「せ」の一言もなくて自転車で走り回るだけといった類の候補者を、「改革」「政権交代」を掲げる政党が公認したりすることになる。逆にマニフェストの意味くらいは分かる候補者は、むしろ無所属で自力で国民主権の政治市場に参入していく。こうした構図は、統一地方選ではあちこちに見られた。
 政策・理念はもとより組織文化・体質、さらには戦術判断・政局の駆け引きまでを、国民主権の政治文化から説明できるものにする。マニフェストがその組織表現となるところまで、国民主権の政治市場を成熟させることこそ、次期総選挙にむけたシナリオの骨格である。

経世済民・日本再生のマニフェストを
つくる国民運動を

 国民主権の政治市場のとば口は開いた。この新たな市場では「株価対策」(選挙対策)で市場の紀律を歪めることは許されない。「政官業の癒着を断つ」政権交代への「期待値」(政権担当能力への信任)は、それに相応しい組織表現、支持基盤、行動規範などを打ち立てる組織戦の蓄積によってのみ上がってゆく。
 政策は作文ではない。政策とは人の流れをどこからどこへ変えるのかということであり、どういう社会を目指すのか、その社会ビジョンに向けて現状をどう変えていくのかで政策を論じるのである。したがって政策を論じるには、有権者のどの層をコアの支持基盤とするのか、多数派形成ではどこまでを味方にするのか(妥協の幅と原則)といった「人の顔」が見えなければならない。
 経世済民・日本再生のマニフェストはなによりも、国民主権の政治市場を紀律化しうるものでなければならない。そのためには「責任」とか「公正」ということが重要なキーワードになる。
 例えば有事関連法の修正協議をとりまとめた前原誠司衆院議員は、民主党のメールマガジンで次のように述べている。
 「今回の修正は、国から国民を見ている政府案、国民の視点から協力もするが、基本的人権がどう保障されるかに立つ民主党案との間の協議で、この視線の違いを修正するものでした。まず、憲法に緊急事態の規定がないので、基本法を作るとの極めて大きな合意がされました。また、基本的人権の保障は個別条文を明記する形で法案に書き込むことができ、さらに国民保護法制の中でも担保されることが確約され、民主的統制を強化する形で、対処措置が国会の議決で中断、終了できることが明記されました。政府案では協力を求める国が動きやすくすることに重点が置かれていましたが、我が党は国への協力も必要だが、憲法に保障された基本的人権をどう担保するか、民主的統制としての議会重視をどう貫くかの点で修正を図り、それが実現できました。つまり、民主党の案、国民の側に立った視線での修正が図られたのです」
 五十五年体制の政治文化(右・左など)から見ていたら、ここで言う「視線の違い」が政策論議のキーだということは分からない。「有事法制に反対か、賛成か」ではなく、「どういう(どういう視点にたった)有事法制が必要なのか」という政策論議の土俵ではじめて、有事における権力の発動をいかにルール化するかという議論ができる。
 この論議に踏み込めた政治グループ・支持基盤と、それについてこれた政治グループ・支持基盤、ついてこれなかった(政局がらみでしか見ていない)政治グループ・支持基盤という新しい分岐を次の土俵でどう再編していくか。前二者を軸にして今日の現実的な危機(ミサイル攻撃など)への対処を論議するのと、それがなくて論議するのとでは、意味が大きく違ってくることになる。
 経済ではもっと「視線の違い」が明らかである。大塚耕平参院議員は、自身のメールマガジンでこう述べている。

1 有事の基本
 日本経済はいよいよ有事になってきました。外交安保であっても、経済であっても、有事に対する備えと対応の基本は変わりません。
 第一は、現状に関する冷静かつ正確な分析と認識です。的確な現状認識があれば、有事を未然に防止することもできます。逆に、的確な現状認識がなければ、その後の対応も誤る可能性が高いと言えます。
 第二は、万全の準備です。外交安保分野で言えば、防衛力を整備し、有事の際にどのようなルールに従って行動するか(つまり有事法制)を決めておくことです。経済分野では、有事に際した経済政策のメニューを揃えておくことです。金融に関して言えば、例えば、銀行が経営に行き詰まった際の法制を予め整備しておくことがそれに当たります。
 第三は、現実の有事に際した迅速かつ的確な対応です。国民が国に税金を納め、政府に政策運営を負託しているのは、有事に際して、国民の生命と財産を守ってほしいと思っているからです。
 企業経営や組織運営における有事対応も全て基本は同じだと思います。他の政策分野もまったく同じです。さて、日本の現状はどうでしょうか。
2 再生ではなく破綻
 残念ながら、不良債権問題や銀行の経営問題において、日本の政府・行政当局は、むしろ事実を歪曲したり、粉飾を助長するような行動をとっているのですから始末に負えません。有事に対する第一の基本を自ら歪めているのです。
 りそな銀行への公的資金投入を巡って、小泉さんも、竹中さんも「破綻ではなく、再生のための公的資金投入だ」と強弁しています。しかし、りそな銀行の財務諸表を見ると、自己資本とほぼ同額の繰延税金資産(計算上の資産=実際には存在していない資産)が計上されており、事実上の債務超過に陥っていることは誰の目にも明らかです。
 大きな火事が起きているのに、消防署(=金融庁)が「あれは焚き火です」と言っているのと同じです。
 第二の基本も疎かになっていました。そもそも、金融における有事法制のひとつである早期健全化法という法律が、二〇〇一年になくなっていました。それ以降、政府は「もう金融システムは健全です。危機は起きません」という虚構を前提として、「有事法制は必要ありません」というスタンスを取り続けていたと言えます。
 平時においても有事に備えるのが政府の務めです。「有事にはならないから有事法制は必要ありません」というレトリックを用いていることは、政府として失格であることを証明しています。
 第一、第二の基本が疎かになっているのですから、現実の有事に直面して適切に対応できないのは当たり前です。
 「破綻(火事)ではなく再生(焚き火)だ」と言う小泉さん、竹中さんの主張が本当であるとすれば、有事対策は消火器程度でいいはずです。しかし、現実に持ち出してきたのは大型消防車(預金保険法一〇二条)です。焚き火を消すには少々大袈裟と言えます。
 大型消防車を持ち出してきたことが、今回の有事が「再生(焚き火)ではなく破綻(火事)である」ことの証です。

 「責任」「公正」というキーワードを争点化するには、それに相応しいリーダーとフォロワーの陣形が不可欠である。
 自分が預金している銀行が潰れるかもしれないと、いまや半数以上の人が考えている。にもかかわらず取り付け騒ぎも起こらないというのは、国民に危機意識がないからなのか。それとも「手数料をとるだけの、役にも立たない銀行をあてにしなくてもやっていける」だけの実生活=既存の「官制市場」とは別の経済の流れ=があるからなのか。依存と分配の文化圏に立脚していれば、前者しか見えない。そこでは自己責任さえクリアしていない部分に向かって「破綻」を言い立てて、「だから改革だ」ということになる。
 自力で生活している文化圏では、そろそろ後者が見えてくる。だからこそ自己責任だけでは超えられない問題=平均株価八五〇〇円以下という市場の機能不全=の責任を問う声が出てくる。どちらに立脚して「破綻の責任」を問うのか。ここの人の流れ、「顔」が見えるところから経済運営をめぐる争点は絞り込まれてゆくだろう。
 国民主権の政治市場のとば口は開いた。この政治市場をより発展させ、運営するすべを深め、「責任と信頼」の商品をさらに開発し、市場参加者を拡大していこう。
 次期総選挙に向けて、経世済民・日本再生のマニフェストをつくる国民運動を。