日本再生 291号(民主統一改題21号) 2003/7/1発行

国民主権の力で、次期総選挙を
マニフェストによる政権選択選挙として準備しよう

主権者の〈責任の転換〉を組み込んだ
政治の構造改革のとば口が開いた

 有事関連法が与野党(自民・民主)の修正協議によって成立したことは、わが国の「政党政治」の新たなステージの幕が開いたことを意味する。
 折りしもこの夏は、選挙制度改革をめぐる自民党の分裂から細川政権が誕生して十年目を数える。「政界再編の十年」が抱えてきた課題は、五十五年体制=国内冷戦的な政治の枠組みの克服と、「どの党もバラバラだから政界再編が必要だ」という、政党不信とそれに根ざした政界再編論(永田町の数合わせ)の克服であったといえるだろう。
 有事関連法の修正協議の成立は、この問題にひとつの区切りをつけたといえる。
 民主党筆頭理事としてこの修正協議をまとめた前原誠司・衆院議員は、このように述べている。
 「冷戦がまだ続いているとき日本は、自民党と日本社会党という(大きさの違いはあれ)二大政党による五十五年体制と言われていました。そのときの外交・安全保障の対立軸は、日米同盟関係を認めるか・認めないか、自衛隊は憲法違反か・合憲かと、こういう分水嶺があったわけです。
 しかし冷戦が崩壊して今は、自民党と民主党という構図です(まあ無党派層が五〇パーセント以上いるので、一番大きな政党は無党派なのかもしれませんが)。この自民党と民主党(野党第一党)が、外交・安全保障政策では不毛なイデオロギー論争を克服する。つまり自衛隊は当然必要だと。また日米同盟関係はいろいろ課題も問題もあるけれども、今後も必要だと。そういう前提に立って、しかしそれでも政権交代が必要だということを外交・安全保障面や内政の問題で示していかなければいけない。われわれはそういうことを目指してきました。
 このたび有事関連法案が与野党の修正で合意した。国会で九割の賛成が得られたということは、これからは外交・安全保障では不毛なイデオロギー論争はしないと、実質的な部分での政策競争というものを国民に提示して選んでもらう、そういう二大政党制への道に入ったという意味で、意義があったのではないかという気がしています」(第49回定例講演会にて。本号三―十面に掲載)
 五十五年体制=国内冷戦的な政治の枠組みが克服されるということは、与野党において論議をつくして合意をはかるべき政策分野(外交・安全保障)と、政権をめぐって徹底的に争うべき政策分野(経済・社会政策)という“仕分け”が出来てくることを意味する。(ついでに言えば、このように政党としての大枠の方向が合意されるなら、党議拘束をかけない領域=個人の価値観に委ねられるべき領域=も明らかになってくる。)
 前者の領域(外交・安全保障)でいえば論議の土俵は、「有事法制に賛成か、反対か」ではなく、「いかなる有事法制が必要か」へ転換する。その瞬間、論ずべきことが見えなくなる政党・有権者の「政策観」は、五十五年体制=国内冷戦的な政治の枠組みにとらわれたものであり、その枠組みからの「政界再編」(永田町の数合わせ)が“終わりの終わり”を迎えたことを意味する。
 前原議員は修正協議について、「今回の修正は、国から国民を見ている政府案、国民の視点から協力もするが、基本的人権がどう保障されるかに立つ民主党案との間の協議で、この視線の違いを修正するものでした」と述べている(民主党のメールマガジン5月22日号)。
 この「視線の違い」は今後、(修正協議で合意した)国民保護法制や基本法の制定において、さらに厳しい政策論争として展開されるであろう。
 国民の一角に、主権者としての責任の転換=破綻寸前の自治体財政に向き合う責任意識(先送りしない)と、戦争を直視する責任意識は通底している、という生活感覚=が開始された。「政権をめざして政党を作っては壊し」という「政界再編の十年」ではなく、「政治に利権・口利きを求めない人たちが、自分たちの代表をつくるために政治に参加する」ことを訴え、そういう有権者を自力でつくってきた十年としてきた部分(前原・筆頭理事、枝野・政調会長、野田・国対委員長など)が今回の修正協議をまとめたのも、偶然ではない。
 外交・安全保障で与野党が共通の土俵にたった論戦を展開するためには、野党が国民主権の統治能力へ成長すると同時に、当然のことながら、与党にもそれにふさわしいカウンターパートがなければならない。目先の政局の利害からではなく、国家や国益、市民社会の公共性から論戦を受け止め、対応できる部分と、「依存と分配」の体質に浸りきった部分との分岐は、国民主権の政治文化という観点からしか、もはや見えない性質のものである。前者のほうに、政党がマニフェストを掲げて選挙を戦う意味や必要性を理解できる人たちがいるのも、偶然ではない。
 主権者の〈責任の転換〉を組み込んだ政治の構造改革のとば口が開いた。有事法制の修正協議とはそのことである。
 「政界再編の十年」でもっとも際立つものは、自民党の政権に対する執念であろう。「政権をめざして政党をつくっては壊し」というレベルでは、政権のためには何でもアリの執念に、とても歯がたたなかったということである。ここからの政党不信、政党のバラバラ感、それをバネにした「政界再編」論や「改革」論、「政権交代」論の混乱に、国民主権から区切りをつけること。そのための舞台の幕が上がったのである。
 それゆえ、次期総選挙はマニフェストを掲げた政権選択選挙にしなければならない。マニフェストで選ばれた政党が政権を取る→政権党は政策の実現に努力し、有権者はその達成度を業績評価する→評価が低かったり野党のマニフェストのほうが説得力があれば次の選挙で政権交代が起こる。これがマニフェスト・サイクル(曽根泰教・慶応大学教授「朝日」6/15)である。「とにかく自民党を政権からひきずりおろす、そこから改革が始まる」という範疇の「政権交代論」では、マニフェストの意味は分からない。
 次期総選挙を政党がマニフェストを競うものとするためには、与野党が政策競争して合意すべき分野(外交・安全保障)での論戦の軸と、徹底して政権を争うべき政策領域(経済・社会政策)での対立軸を、さらに絞り込んでいかなければならない。秋に総選挙という日程では、生まれつつある将来の芽を摘むに等しいことは明らかである。
 もちろん、同日選を嫌う公明党への配慮という、経済有事や北朝鮮問題などの政治課題と無縁な「身内の都合」で政治日程を組むなどは、言語道断である。
 公明党もマニフェスト作成に力を注いでいる。現在の与党の枠組みで選挙を戦うのであれば、当然、自民党とのすり合わせなしのマニフェストでは、無責任のそしりを免れないであろう。マニフェストが「願望リスト」や「つじつまの合った政策作文」と違うのは、政策実現の裏打ち・責任を明確にする点にある。こうした本来の意味のマニフェストなら、与党の枠組みでの合意形成をともなわねばならず、それには秋では間に合わないのは当然である。

経済失政の責任を問い、現実の危機にどう向き合うか
―「経済有事」をめぐって政権選択を争うために

 小選挙区制度が導入されて、政権を選択するという要素は制度上は強まった。同時に(それ以上に)中選挙区のような特定の利害関係者や団体を囲い込むという組織戦では勝てない、いかに納得して参加してもらうかという組織戦で既得権の壁を崩して当選するということが可能になってきた(本号掲載の中塚議員、細野議員、手塚議員のお話参照)。
 この入れ替え戦の過渡期に伴っているのが、「人物本位」ということである。つまり理念、政策で選ぶということが、個人の信条に委ねられていて、政権選択のレベルになっていないということである。その最たる例が、「構造改革」を掲げる総裁の下で、「抵抗勢力」を自認する公認候補が当選してくるという構図である。
 マニフェストは、こうした状態を紀律化するものである。その意味でも、次期総選挙でマニフェストが機能するようにするためには、「経済有事」という領域での政策競争の枠組みが、整理されなければならない。
 五十五年体制では、経済・社会政策においては自民党から共産党まで「分配」を争う「総社民」であり、その行き詰まりから「構造改革」が叫ばれてきた。しかし未だに、その論争軸は整理されたとは言いがたい。むしろ「すりかえ」が幅をきかせるほど、混乱していると言えるだろう。
 本来ならプラザ合意(一九八五年)以降の失政のツケとして総括すべき性格であるが(グローバル経済への対応の遅れ/サッチャー型改革の先延ばし/少子高齢化・成熟社会への対応の遅れ)、少なくとも九八年の「経済敗戦」以降の総括から、論戦を整理しなければならないだろう。
 まず問われるのは、現状認識である。「危機」であるのか否か。「依存と分配」の側から「危機」と言うのか、自由・民主主義・市場経済の側から危機と言うのかそれとも、破綻を改革や再生と言いくるめる(危機と言いたくない)のか。現状認識が違えば対応策も違ってくる。一番始末におえないのは、破綻を改革と言いくるめるという「先送り」「ババ抜き」の無責任連鎖である。
 例えば生保の予定利率引下げについて。
 「生保が契約者に約束している予定利率は、〇一年九月に金融審議会で精査された審議会案をパブリックコメントの募集で検討した結果、生保が破綻前に予定利率を引き下げることに賛成はわずか七%で、八十七%が反対でした。そこで、金融審議会では、『既契約の条件変更は社会的認知が得られず、この制度は導入しない』と決定しました。
 すべての国民は、憲法第二十九条で財産権を保障されています。にもかかわらず、財産権を侵害する保険業法改正案が今回急に政府・金融当局から飛び出したことは、既に生保業界は“超法規的”な措置をとらざるを得ないほどの状況にあるのか、それとも、政府・金融当局がよほど生保にお世話になっているか(政・官・業の癒着)のどちらかであります。
 生保は、一般会社の会社更正法にあたる更正特例法が使えることになっており、司法の下で破綻処理が行えます。しかし、破綻処理に公的資金が必要となれば、金融庁に監督責任が問われます。ところが、生保自らが『破綻しそうだから予定利率を引き下げます』と手を挙げる形にすれば、金融庁は責任追及から逃れられます。さらに、予定利率の引き下げを申請せずに破綻した場合は、『予定利率を引き下げなかった生保自身に責任がある』と責任を生保に押しつけられます。極め付きは、契約者の異議申し立てで予定利率の引き下げに生保が失敗して、その結果破綻したら、契約者の責任にすり替えることができるわけです」(作田同人のレポートより)
 破綻を改革・再生と言いくるめる―九八年以降の失政とは、この問題である。まず、現状の危機・破綻状態を直視すること。ここで論戦を構えることである。その意味で、今春民主党が財政規模は政府と同じ条件にした予算案を作成したことは、論点をクリアにするうえで一歩前進である。すなわち、財政赤字がいいか悪いか(国債発行三十兆円枠が妥当かどうか)という論議とは切り離して、「お金の流れをどう変えるか」に論点をしぼって対立軸を鮮明化したわけである。
 この問題は自治体財政では、よりストレートに問われる。「三位一体」改革のように、国は財政破綻を自治体につけ回せるが、自治体は財政破綻をつけ回すアテはない。依存と分配の分捕り合戦の側からも、財政破綻に向き合わざるをえない。もはや優先順位の入れ替えで収まる次元ですらないというところで、現実と向き合った議論ができるか(その責任意識)が問われている。
 そうした緊張感を組み込んだうえで「お金の流れをどう変えるか」(税金を払わずに依存している分野から、税金を払える分野への資源配分の転換/政官業の癒着という横取り構造の排除)という論争軸を、国民運動的に展開できるか。当然もう一方には「○○死守」というような国民運動もありうるだろう。経済政策が、政権を争う対立軸になるためには、そこまでの国民的基盤がともなわなければならない。
 来年度予算では「三位一体」改革の具体的な中身が提示されることになっているから、義務的経費は全額、それ以外は八割を地方に委譲という同じ前提で予算案を組めば、「二割削減」の中身やその使いみちなど、さらにはっきりするだろう。(今回の「骨太方針」はそこは先送りしているから、まとまらない可能性も大いにある。)民主党は地方への「一括交付」を基本公約としているが、あえて同じ前提にすれば、もっと論争軸が鮮明になるだろう。
 同時にそうすれば、中央政府の財政は文字通り、借金をして借金を返す(国債を発行して国債の利払いにあてる)という姿になる。この事態にどう向き合うのか。ここまでの借金体質にしてしまった失政の責任を問う、という論争軸の設定が必要である。それは、「○○叩き」というよりも、バブル崩壊後の失政のツケをいかに公正に負担するかという論争軸とセットにすべきである。それによって「目先の損得」からだけではなく、次の社会ビジョン・ウォンツから経済失政の後始末を論じるという土俵をつくるべきである。
 「目先の損得」で経済を論じても、主権者としての責任を自覚した国民の政策ニーズには応えられない。その層(マニフェストの意味が理解できる層)が反応するのは、次の社会ビジョン・ウォンツから経済政策を(税制、社会保障なども含む)提起したときである。問題はそのことと、目の前の課題である失政の後始末とをセットで提起できるか、ということである。
 破綻を改革だ、再生だと言いくるめれば、かならず市場経済に逆行する対策をとることになる。構造改革の掛け声の下で、現実に進んでいるのは市場経済の縮小、公的部門の肥大化である。
 安全保障の領域ではようやく、現実を直視しない「空想的平和主義」とその裏返しとしての「自主憲法制定」的論調の空間を終わりにして、現実的合理的な政策論議への一歩を踏み出した。それに対する「疑念と不安」(盧武鉉韓国大統領の国会演説)については、よりいっそうの国民主権の発展、自由・民主主義・市場経済の価値観から、包括的な外交・安保戦略を打ち出し、実践的には北朝鮮問題に「賢明に」対処することで応えていく以外にはない。
 経済領域においては、破綻を改革だ、再生だと言いくるめる「無責任論理」の空間を断ち切るところから、新たな論争の土俵、枠組みをつくりあげていかなければならない。
 この秋から来年度予算編成にかけて、かような意味で「経済有事」にどう対処するのかをめぐる論戦を展開し、政権を争う分野としてマニフェストが機能するような環境を整備すべきである。

国民主権の力で、次期総選挙を
マニフェストによる政権選択選挙として準備しよう

 マニフェスト運動が目指すのは、選挙を「政権選択」と位置付けて争う政治構造をつくることである。小選挙区の導入も、そのためのものであったことを考えれば、この十年の紆余曲折に一区切りをつける意味でも、次期総選挙はマニフェストを掲げて争われることが望ましいし、必要である。
 統一地方選でマニフェストという言葉が一気に広まったのも、有権者のなかに「(政治不信を前提にした)政党か無党派か」ではなく、政策による政党と有権者の紀律化という政治の構造改革への要求が高まっているからにほかならない。地縁血縁と利益誘導、団体囲い込みの情実選挙とは別の有権者市場を自力で開拓してきたところには、一方で国民主権の統治能力への開花が始まり、他方で選挙のありようを大きく変える(政治文化の入れ替え)国民運動が開花しようとしている。この芽を着実に育てていかなければならない。
 そのために、次期総選挙までの時間を使うことである。
 21世紀臨調はほぼ十年ぶりに組織体制を改めて、本格的な政治改革運動をスタートさせる。当面の目標は、@政治を立て直すために、すべての政党に次期総選挙からマニフェストの導入を求めるA改革派知事と連携し地方分権を推進するB国民と政治の関係を見直し、政治を支える新たなインフラを模索する、としている(茂木友三郎・21世紀臨調共同代表「読売」6/19)
 秋に総選挙という日程では、こうした芽を潰すに等しい。マニフェストが意味をなすためには、「経済有事」という領域での論争軸・枠組みを整理しなければならない。「どっちがいいことを言っているか」というレベルでは、マニフェストの意味をなさないからだ。
 そのためにも、秋の自民党総裁選では経済路線が争われるべきである。意識ある有権者は、そういう緊張感を求めるべきである。そして三位一体改革の具体化も含めた来年度予算編成をめぐって、経済政策の論争軸を与野党ともに有権者に明確に提示すべきである。
 マニフェスト導入の国民運動は、主権者の〈責任の転換〉を組み込んだ政治の構造改革をめざす国民運動である。マニフェストの導入をめざす各政党(場合によっては有志)や、市民自治に基づく自治体改革運動(首長・議員・市民)、マニフェストで評価しようという主権者(団体・個人)が幅広く連携し、多様な活動を縦横無尽に展開すべきであろう。
 十年前の政治改革の舞台を回したのは、「変えたい」という国民の熱気であった。それから十年の試行錯誤を政党政治の一新へむけて転換・脱皮させるべく、舞台を大きく回すときである。国民主権の力で、次期総選挙をマニフェストによる政権選択選挙として準備しよう。