日本再生 292号(民主統一改題22号) 2003/8/1発行

マニフェスト(政権公約)選挙が問う有権者の試練
主権者としての責任の転換−脱官僚・脱無党派・脱中央集権

今度の選挙はおもしろくなりそうだ

 通常国会が終了し、政治の舞台では九月に予定されている自民党総裁選と次期総選挙が焦点となってきた。再選をめざす小泉総理は、「総裁選での自分の公約が、次期総選挙での自民党の公約になる」として、郵政民営化、道路公団民営化、地方への税源委譲と補助金の削減を柱とした総裁選マニフェストに意欲を見せている。
 一方で会期末、民主党と自由党が政権交代をめざして九月末の合併に合意したことは、次期総選挙で国民に政権の選択肢を提示するという点で大きな意義がある。民主党現執行体制と、それが準備しているマニフェスト(政権公約)に自由党が合流するという形は、「政権交代可能な二大政党制という大義のため」という自由党の決断とともに、有事法制を成立させたことにも見られる民主党の統治能力の成果であろう。
 民由合併に対する自民党サイドの「野合批判」は逆に、「政権交代可能な野党」が登場しつつあることのインパクトを示している。九月の総裁選でだれが自民党総裁に選ばれるかはまだ分からないが、次期総選挙が国民にとって、自民党政権を選ぶのか、民主党政権を選ぶのか、それをマニフェスト(政権公約)をめぐって選択するという、政権選択選挙となる条件が整いつつある。
 民主・自由の合併にむけた今後の「調整」過程では、候補者の一本化や地方組織などの組織問題が主な課題となるだろう。自民党総裁選では、この間ずっと問題になってきた「小泉改革」と「抵抗勢力」との関係にどのように決着をつけるのかが問われる。いずれも「政策」「人事」「組織」などをめぐる、政党としての統治能力が試される。
 国民主権で権力を運営していくうえで政党が不可欠であるのは、政党が民意を反映すると同時に、多様な民意を討論を通じて集約していく機能を果たすからである。そのために政党は、綱領という形で集約の方向性や一定の枠組みを明らかにする。
 多岐にわたる個別利害や意見の多様性を集約するには、利権やポストによる利害調整ではなく(五十五年体制の政党はこれでやってきた)、「次の社会ビジョン」や「より高次のパブリック・公益」にむけてそれらを調整する統治能力が求められる。右肩上がりの時代の「あれもこれも」ではなく、次の社会ビジョン・戦略から「あれかこれか」という優先順位を決め、それでまとめ上げていく能力と機能である。
 政党に対する「バラバラ感」とは、この政党の意見集約機能がマヒしていることに起因する(五十五年体制の利害調整機能は崩壊したが、それに替わる新たな集約機能は未確立)。その結果、与党も野党もバラバラで「言いっぱなし政治」が横行し、決定と責任の所在がメチャクチャになり、無責任連鎖が増殖した。こうして政党不信は、危機的な状況にまで高まった。
 この閉塞を打開し、選挙で政党を立て直す絶好の舞台が、マニフェスト(政権公約)による政権選択選挙である。だからこそマニフェストとは、「何を言っているか」(いいことを言っているかどうか)だけではなく、「それを実行する責任能力があるか」という、政党としての統治能力が試される。どんなに「いいこと」を言っていても、政権は一人では運営できない。政権を運営するのは政党であり、集中的にその執行部のチームとしての統治能力によって、政権の統治能力、運営能力の如何が決まる。
 それゆえ、九月に向けた自民党総裁選と民主・自由合併の過程は、国民にとっては次期総選挙での政権選択のために、二大政党の統治能力を値踏みするチャンスなのである。マニフェスト(政権公約)の中身を吟味すると同時に、「公約に責任を持てるのかどうか」(言いっぱなしは論外)という政党の組織としての統治能力をも、しかと見定めることである。すでにこうして、政権選択選挙への準備は始まっている。

脱官僚・脱無党派・脱中央集権

 細川政権の誕生から今年で十年を迎える。政界再編十年の混迷とは、既存の政党が国民の意思を結集できないという点につきる。無党派が第一党というのは、それを端的に表している。マニフェスト(政権公約)で政権選択選挙をということは、こうした政治の構造的欠陥を克服する一歩にほかならない。その基本的な方向は、「脱官僚」「脱無党派」「脱中央集権」ということができるだろう。

● 脱官僚とは、国民主権の統治機能を確立すること
 脱官僚とは、官僚叩きのことではない。それは、国民主権の統治機能を確立することにほかならず、そのためには国民の意思を結集する政治の役割が決定的に重要である。「官僚主導政治」を排するとは、国民の付託を受けた政党が責任をもって内閣を運営するという意味での政治主導であって、政治家の意向に官僚機構を従わせる「政治家主導」でもなければ、内閣外の与党が内閣の方針を左右する「政府与党二元体制」でもない。
 冷戦が終わり、戦後日本をとりまく内外の環境は激変した。しかしわが国はそれに対応しきれずに、漂流し続けてきた。その根本には、国民の意思を結集できない政治の空洞化がある。政治的意思を結集できない結果、積み重ねのない漂流が続き、それは多大なコストを経済・社会に強いる。
 例えば外交・安全保障において、有事法制が与野党修正協議のうえ成立したことは、この分野で国民の意思を結集する政治の機能が芽生えつつあることを示す一方、果たすべき政治の役割を鮮明に提示することにもなった。
 「一ついえることは、この武器使用基準の問題にしても武力行使との一体化の問題にしても、冷戦後の日本の安全保障というものは、九二年のPKO法、〇一年のテロ特措法、それから今回のイラク復興支援法のように、外的環境の変化に応じて新しい法律をその都度つくってきたわけです。
 (その)結果、重要な憲法問題、法律問題が全部先送りされていますから、武力行使との一体化や武器使用の問題がそのたびに蒸し返されるという、非常にコストの高いやり方をとってきているわけです。確かにこの十年間、日本の安全保障政策は大きく前進しましたが、根本問題を回避したままの政策立案が繰り返されてきたのではないかといえるわけです」(村田晃嗣・同志社大学助教授/関西政経セミナーでの講演 5―9面参照)
 あるいはこうである。
 「湾岸戦争後の日本の(安全保障面における)急速な変化はめざましいものであるし、その内容はおおむね、冷戦後の不安定な国際環境に対応した適切なものであった。しかしショックに端を発し行動する時人間は過剰反応しすぎることがあるし、特に国際的に活動範囲を広げることは、誤りの結果がより重大になることを意味する。失敗を避けるには安定した制度、特に国内体制が必要である。しかし日本は、国内の制度疲労に対しては案外対応能力が低いところがあるように思われる。この弱点を克服できるかどうかが日本の将来にとって大きな意味をもつであろう」(中西寛・京都大学教授/毎日7/28)
 イラク支援法は、政治の役割・責任を明確にすることなしには、もはや一歩も先には進めないところまできていることを示している。
 「(イラク特措法の国会審議は)もっとも中心となるべき議論が欠けていた。イラク復興支援が日本にどんな意味を持つかを政治がもっと分かりやすく、国民と自衛隊員に明確に語って欲しい。(日本の国際的立場、日米同盟、国益などを考えれば)有志連合への参加は欠かせない。まず参加すべしと結論を出し、次に具体論を語るべきだったが、国会論戦はいきなり中身に入った。これでは国民は理解できない。
(部隊の安全確保について)大きな原則を示せば、海外でまだ一度も銃弾を撃ったことのない慎重な自衛隊が常識を外れることはない。また、安全確保のために起きた結果については、隊員ではなく、政治が全責任を負うと派遣前に明確にすべきだ」(西元徹也・元統幕会議議長/読売7/27)
 国際平和協力のための恒久法の制定と、国民保護法制の制定はすでに具体的な課題である。いずれも緊急時における権力規定を欠落させている現憲法の「空洞」を埋める、政治の責任にかかわる問題だ。これこそ国民の意思を結集すべき政治の課題である。それが明確になってこそ、官僚機構の役割・責務もまた明確になるし、国民主権の下での真の意味のシビリアン・コントロールが明確になる。
 社会保障や税制といった分野においても同様に、二十世紀型システムから二十一世紀型システムへの転換をなしうるための国民的意思の結集こそが求められている。官僚主導になるのは、政治がその役割を果たしていないからである。

● 脱無党派―政党に責任を、有権者に試練を 今春の統一地方選挙から、「無党派」内部の分岐が目にみえるようになった。そのきっかけはマニフェストである(9―10面関西政経セミナー・パネルディスカッションならびに二九一号「自治体座談会」参照)。 
 無党派イコール政党否定ではなく、明確なウォンツがあるからこそ、そしてそれが既存政党には集約されないことが分かっているからこそ、直接有権者市場に訴えて支持基盤をつくろうという活動スタイルをとる議員および候補者は、政党政治とマニフェスト(政権公約)を主体的に理解し、またその基盤整備の活動を行っている。
 明確なウォンツがあり、そしてそれが既存政党には集約されないことが分かっているからこその無党派というなかに、フォロワーとしても政党政治の主体へという責任の転換を組織しなければならない。
 マニフェスト(政権公約)は政治を変える「魔法のつえ」ではない。マニフェストが有効に機能しうるには、政治家と有権者との関係を変える―政治文化を変えるための地道な組織戦が不可欠である(11―17面パネルディスカッション「政治文化を変えよう」参照)。
 「旧来の『いい政治家』のイメージは、水戸黄門です。どこかから偉い人を連れてくれば解決する、という政治文化です。しかしそれでは立ち行かなくなっているのではないか。政治家に悩みがあるならいっしょに考えて、成り立つようにする。これが以前にもお話しした、政党政治の根幹とも関係するわけです。
 ところが日本では政党というと、普通の人は『自分には関係ない』と考える。あるいは、政党とは何かしてくれるものだと考えている。つまり有権者ではなくて、むしろ行政サービスの受け手のお客様という意識で、じつは自分たちが政党というものをつくって行政サービスの大元をつくっていく、という意識が薄いことです。(中略)やはり自分でつくらなければ民主政治は成り立たない。これが政治文化を大きく変えるということでしょう」(飯尾潤・政策研究大学院大学教授/前出パネルディスカッション)
 政党にマニフェスト(政権公約)を掲げるように要求するということは、有権者もまた、「お世話になったどうか」や「いい人かどうか」あるいは「いいことを言っているかどうか」というレベルで政治家を選ぶのではなく、「その政策を実現する能力・責任意識があるのかどうか」「それを議員として支えるのかどうか」を判断するということである。その意味で有権者は、自己満足や好き嫌いではなく、政治を公約に基づく業績で評価する責任を負うのである。
 「何よりも政権公約を有権者に提示することに政党の機能があるということは、政策の選択と政治の結果について責任を負うのは究極的には有権者であるということを内包している。民主政治においては明確な政権公約がない場合においても、有権者が結果に責任を負うというのは一種の常識である。
 問題は有権者がこの責任をどのような明確な根拠と明白な基準に基づいて果たすかである。曖昧な願望のリストのようなものしか示されない場合よりも、明白な政権公約を示された場合のほうが、有権者がその自己責任を果たすのにフェアであるというのがここでの立場である。白紙委任状を取り付けるような『任せておけ』式の選挙をしておいて、結果については有権者の自業自得であるというやり方はフェアとはいえないであろう。
 民主政治はうまく機能しない場合、『有権者が愚かであるから』という殺し文句が唱えられる。しかし、仮に愚かであるとしても、『どう愚かであるか』がはっきりしている場合と不明な場合とでは政治学習に雲泥の差が出てくる」(佐々木毅・東大総長・21世紀臨調共同代表/中央公論8月号)
 マニフェスト(政権公約)は従来の選挙公約に比べて政策内容が詳細である、というだけのものではない。「何を」「いつまでに」「どのように」という、実行にかかわる政党の集団的責任を賭けた有権者との契約である。その意味で、政党には責任が問われる。
 同時に「あれもこれも」や「任せてください」式のリストではなく、将来に向けた厳しい選択を有権者に問うものであり(一般的抽象的な「痛みを伴う改革」ではない)、その分有権者にも選択と責任が問われる試練を意味する。ここでは自己満足的な無党派の存在は、無責任なものにしかならない。

● 脱中央集権―住民自治と国民主権で統治機能を鍛える
 小泉マニフェストの「目玉」のひとつは、地方分権になるようだ。しかしその内容は地方への税源委譲と補助金削減である。もちろん地方分権のためには、権限の委譲も税源の委譲も必要ではある。だがもっとも必要なのは、地域の自治の力であり、それをどのように促進していくのかという視点である。
 「私の立場からは、市民自治というものをベースにして政治文化を変えたいなと思っています。市民が主権者であるということが理念だけではなく、本当に実感として市民が持てるようなまちをつくりたい。市民が自己決定して自己責任をとりながらまちづくりを展開する。そういうことをやっていきたいなと思っています。
 そのためにいろいろなことが必要だと思いますが、市政に市民が参加する、というよりは市の政治を市民が動かせるということが大切だと考えています」(福嶋・我孫子市長/前出パネルディスカッション)
 福嶋市長の持論は、市民自治の本旨は異なる意見や利害をもつ市民が、その調整を行政に委ねるのではなく、市民同士が対話し討論を通じて合意形成をはかっていくところにある、というものである。別の言葉でいえば、市民自身が主権者として問題設定と問題解決の能力を鍛えていくということである。逆に言えば、それが欠如している度合いに応じて、行政依存・官主導となり、霞が関依存となる。脱中央集権とは、ここの問題である。
 マニフェスト(政権公約)という言葉が統一地方選で一気に広まったのも、自治体選挙のほうがより身近に、こうした自治を実感できるからである。
 三位一体改革は、いよいよ危機的な財政状況を地方自治体にツケ回そうという性質のものであるが、国とちがって基礎自治体には、そのツケを回す先はない。いよいよ住民自身の自治の力―問題設定と問題解決能力が試される。こうした地方自治のうねりと、マニフェスト(政権公約)による政治の構造改革とを、より有機的に連動させていくことが必要である。
 議院内閣制は国民の意思を結集する政党の機能を不可欠とするが、その基礎には、問題設定・問題解決能力を競い合う自治の現場での、政党の能力と存在感が伴わねばならない。それは必ずしも中央―地方組織というタテ系列の固定的な組織化を意味するものではない。むしろ住民自治の力を自在にネットワークできる柔軟な組織形態になろう。
 今春の統一地方選では、マニフェストの意義を主体的に理解できるからこそ既存政党に所属せずに、自力で有権者市場を開拓するというスタイルの自治体議員が、構造的に登場してきた。そこには永田町の枠組みとは無関係に、独自のネットワークもつくられている。マニフェスト(政権公約)による政権選択選挙という構造は、こうした住民自治の力を日本再生にむけてダイナミックに結びつけていく契機となろう。またそうしなければならない。

 政治改革十年の閉塞から脱却し、国民主権の発展の新たなステージを拓こう。日本再生にむけた国民の意思とエネルギーの結集は、マニフェスト(政権公約)による政権選択選挙から!