日本再生 293号(民主統一改題23号) 2003/9/1発行

「政治改革10年」の集約と飛躍をかける次期総選挙と有権者の試練
―政党政治の基盤整備を新たなステージへ!―

「政治改革十年」の集約点としてのマニフェスト選挙(政権選択選挙)

 細川政権誕生から十年目の夏。ようやく「政治改革十年」の集約点が見えてきた。それは民主党・自由党の合併による二大政党の構造であり、マニフェスト選挙である。
 枝野・民主党政調会長は「マニフェストと自由党・民主党の合併というのは、一つの話の二つの集約点ではないかと私は思っています。それは十年前の政治改革で、あのとき蒔いた種がようやく芽を出したということではないか。(その)一つの集約が自由党との合流であり、もう一つがマニフェストであると思っています」と述べている。(本号12―16面参照)
 この十年をどう総括するか。ある総括は「政治改革十年」の集約点がみえてくるが、ある総括は「エネルギーなき崩落」ともいうべき状況に帰結する(総裁選をめぐる自民党の「自分党」的遠心力の全面化や、「晩節を汚す」という意味さえ分からない社民党のていたらく等)。この十年をいかに戦い、何を準備・蓄積してきたのか、その集約はこのように明らかになっている。
 小選挙区制の導入は、政権交代可能な二大政党制への移行のために行われたものであった。しかし永田町で、その意味を主体的に理解していた者は少数であるし、国民にも当然、準備はなかった。その現状にお構いなく、いわば強制的な意識改革として小選挙区制が導入されたのである。
 小選挙区制の導入を、派閥単位で候補者が乱立してカネがかかるから、というレベルで理解していたものは、この十年の変化についていくことさえできなかった。自民党は公明票なしにはもはや選挙を戦えない存在になり、社民党は存亡の淵である。
 二大政党制への移行を、選挙―有権者を巻き込んだ再編―ではなく、政界再編を通じて実現しようという試みは、ことごとく頓挫した(保・保連合やYKKとの提携など/二九二号掲載の達増議員インタビュー参照)。
 15%の得票で当選できる中選挙区時代には、特定の利害関係者の票だけを確保すればよい(「囲い込み」選挙)が、不特定多数の有権者にもアプローチできなければならない小選挙区では、それでは当選できない。そこで51%の支持を追求して公共性の観点から政策を訴えるか、利益団体ごとに異なることを言って歩くか(世耕参院議員・自民は、この状況を「人格分裂」状態と表現し、中選挙区のスタイルから脱皮できるかが自民党には問われていると指摘している/第50回定例講演会。二九二号掲載)ということになる。
 15%の囲い込み―締め付け選挙と、51%の支持を追求する政策中心の選挙。この活動スタイルの実際の違いのなかから次第に、依存と分配の構造の中でいう「政治」と、その外側あるいはそれと戦う側が考える政治とでは、政治の意味・価値観が全く異なるという、政治文化の違いが実態的に明らかになっていった。
 ムネオ疑惑の追及のなか、枝野議員は政官業癒着―依存と分配の政治を終わらせるためには、「政治に口利きを求めない有権者が自分たちの代表をつくる以外にない」ことを強調した(第38回定例講演会・二七七号掲載)。同講演会の集約で戸田代表はこの状況を「新しい芽が伸びてきて旧い葉が落ちた」と表現した。「旧い葉」とは鈴木宗男、加藤紘一両議員のことである。ダーティーとクリーン、両極端のように見えていた「旧い葉」がどちらも同時に落ちたのは、まさに政治の意味・価値観の根本的な転換が、現実の組織活動(選挙の戦いかた)の入れ替え戦として進行していたからにほかならない。パネラーである他の議員(前原誠司、原口一博、中塚一宏・各衆院議員)もいずれも、「囲い込み」ではなく有権者に直接政策を訴えて支持を得るという活動スタイルを貫いてきた。
 こうしたなかで、「政治文化を変える」ということが次第に意識されてくる。つまり小選挙区制での選挙の戦いかたの違いが、政治文化の違いとして集積されていく(参照・二九二号掲載の第50回定例講演会「政治文化を変える」)。われわれはこれをより着実なものとすべく、今春の統一地方選を「政治文化の入れ替え戦として戦おう」と呼びかけた。
 中選挙区である自治体議員のなかにも、「囲い込み」ではなく自力で有権者市場を開拓する活動スタイルをとる部分が、少なからず生まれてきた。また中選挙区時代を知らない一期生は、世襲や組織割り当てでないなら、自力で有権者市場を開拓するのは前提になってくる。そのための商品(政策)は、依存と分配―利権ではありえない。(二九一号掲載「一期生議員大いに語る」)。
 二度の小選挙区制での選挙を通じて、こうした分岐が進行した。そして民主・自由の合併によってようやく、二大政党らしきものの形式がつくられつつある。ここに「政権選択」の意味を鮮明にさせるのが、マニフェスト(政権公約)である。
 したがってマニフェストでは、何を言っているかはもちろん重要であるが(例えば「名目成長率二%」などということが公約と言えるのか)、より決定的な対立軸は、依存と分配の政治―その組織・活動スタイルなのか、それとも51%の支持を追求して公共性の観点から政策を訴え、その同志や仲間をつくり、有権者との信頼を築いているのかという点にある。
 この十年をいかに戦い、何を準備・蓄積してきたのか。ここでの政治文化の違いを、権力闘争において決着づける(政権選択選挙)こと、これが次期総選挙である。

準備されつつある政党の統治活動を信任するのか
ボールは有権者の側に返されている

 マニフェストの意味を主体的に理解できているのは、国会議員でも決して多数ではない。しかしマニフェストを掲げるのは当然、という世間の流れが(主体的理解の度合いとは別に)できるや否や、マニフェストを掲げられるかどうかは、政党としての体をなしているかどうかに直結することになる。またマニフェストを掲げることによって、政党としての統治能力が如実に試されることになる。
 端的には、政党の「バラバラ感」の意味が大きく変わってくる。多様な意見が党内に存在すると、与党の場合には「幅が広い」と言われ、野党の場合は「バラバラだ」と言われるのが常であるが、問題は党内に相反する意見が存在することではなく、それを一定の方向に集約する能力(統治能力)があるかという点である。マニフェストはここに焦点をあてることで、政党の統治能力を問うという意味を鮮明にする。
 枝野・民主党政調会長は、マニフェストの本質は選挙前に全党が一致して国民に約束できるか、ということにあると述べている(本号12―16面参照)。大統領的権限をもつ首長の場合には、候補者個人のマニフェストはありうるが、議院内閣制である以上、政党が一致して「政権をとったらこれとこれをやります」と約束しないかぎり、政権公約の名に値しないことは、この間の「小泉vs抵抗勢力」の茶番劇でも明らかである。
 小泉首相は、自分が総裁に再選されれば自分の公約が自民党の政権公約になると、言っている。論理的にはまったくそのとおりであるが、それを本当に選挙前に自民党全体で一致したものにすることができるのか。小泉首相が例え本気で改革をすると思っていても、全党で一致できなければ「小泉vs抵抗勢力」の茶番劇の二番煎じにすぎず、政権公約の名に値しない。
 また公明党は独自でマニフェストを準備しているが、連立を前提に選挙を戦う以上、小泉首相はマニフェストについて、自民党全体および公明・保新の全候補者と一致しなければやはり政権公約とはいえない。連立を前提にしながら、選挙中はそれぞれ勝手なことを言って、選挙が終わってから身内で調整する、というのでは政党に対する信頼は問えない。民主・自由は(合併するから当然であるが)一致したマニフェストで戦う。 政権公約は、自公保連立政権vs民主・自由政権という形で争われるべきものである。個々の政党や候補者が、努力目標としての公約を別にかかげることはできるが、第一義的な焦点は政権を構成する政党の統治能力であり、それを問わなければ「誰がいいことを言っているか」というレベルでの選択にしかならない。好き嫌いで政権を選択するのでは、とても主権者とはいえないだろう。
 このようにして、政権交代可能な政党政治にむけた舞台装置は動き始めた。準備されつつある政党の統治活動を信任するのか―ボールは有権者の側に返された。「政党に政権公約を求めるということは『脱』無党派を覚悟することと一体でなければならない。政権公約は『あそびの少ない』政党政治を実現するための手段であり、したがって、無党派の自己満足にも早晩終わりが訪れるということである」(佐々木毅・東大総長・21世紀臨調共同代表「中央公論」八月号)
 さらに政党の統治能力とは、優れた個人のリーダーシップというよりは、チームとしてのリーダーシップである。自立した市民社会が前提になればなるほど、「オレについてこい」「お任せします」式のものではなく、自己統治を基礎とした優れたフォロワーシップこそがリーダーシップの前提となる。だから「オレについてこい」ではなく、チームなのである。
 したがって「本当にこの国を変えられる政権は、小泉なのか菅なのかではない、自民党というチームなのか民主党というチームなのか、そういう選択を皆さんにしていただけるようにがんばっていきたいと思います」(枝野・民主党政調会長/前出講演会)ということになる。
 この十年の試行錯誤、トレーニングのなかから準備されてきたチームとしての国民主権の統治能力を、政権担当能力(国民主権の権力の発動)にまで開花させるのかは、政権選択に責任をもつ主権者にかかっている。

国民主権の政党政治の基盤整備を新たなステージへ

 ここまでの政党政治の基盤整備は、国民主権の政治文化を組織的にも確立すること(政治に口利きを求めない有権者が自らの代表を創るために政治参加する)であった。政権選択選挙とは、これを権力闘争として決着づけることである。
 政権選択選挙によって拓かれる政党政治の基盤整備の新たなステージは、国民主権の政治文化の基礎にたった二大政党の競い合いであり、それはもはや「保守・革新」「右か左か」ではなく、「より前へ」を競うものになろう。
 紙幅の関係でごく大雑把に言えば、外交・安全保障の領域では問題設定や方向は基本的に同じで、そこへのプロセスや段取りを競うものとなる。その具体論がない度合いに応じて、空疎な空文句になる。例えばイラク復興支援では、小泉首相の対米公約ばかりが先走りして結局、アメリカの期待値も裏切り、恒久法につなげる議論もできず、イラク情勢の変化に翻弄される結果となっている。自衛隊派遣を政局にからめて扱うというのは、最悪である。
 主に政権を争う領域は、経済、産業、社会という分野になる。ここでは@どういう社会をめざすのかというビジョンA実現可能な政策の柱B政権運営と実現プロセスのプランが政権公約として求められる。現に、自民党と民主党で路線の違いがはっきりしているのは外交・安保ではなく、「公共事業による地方の雇用確保」という点である(衆院議員の意識調査/朝日8/27)。これを、公共事業をどれだけ減らすかという議論に矮小化せず、「どういう社会ビジョンか」と結びつけてそのプロセスとともに示すのがマニフェストである。それを検討できる有権者が求められる。分権も「道州制の是非」というレベルではなく、地方自立のプロセスをどう準備するかが求められる。
 「総裁選では郵政や道路公団の民営化より、経済から外交、防衛まで、他に軸を示すべき課題は山ほどあるだろう。〜経済や雇用だけでなく治安にも国民の関心は広がっている。地方では郵政や道路公団の民営化を重視する人は少ない。
 農家や商工業者の方ともよく話しをするが、自民党総裁に誰がなっても、突然何かが変わるとはみんなもう思っていない。総裁選が、政策論争のないドタバタに終われば、政治への無関心が広がると思う」(マニフェストを掲げて当選した古川・佐賀県知事/朝日8/22)
 ここでいう「政策論争のないドタバタ」とは、郵政や道路公団を政策・公約と思っている世界全体のことである。つまり政策とか公約というのは、社会ビジョンとそのためのプロセスであり、かつそれを「任せておけ」式ではなく、マニフェストとして有権者と契約できるか、ということなのである。
 社会ビジョンとは「彼岸の理想像」ではなく、公共性の観点からの有権者のウォンツの集約であり、それを実現可能な政策に変換するところに政党の機能がある。実現可能な政策とは、国民合意をどこではかるか―誰に、どの層に立脚し、どこまで参加・協働の輪を広げられるのか―ということである。こうしたことを、歴史的な意味での社会の成熟をとらえつくし、それを公共性の観点から判断し、行う。かような意味で、本来の政党とは統治のジェネラリストとスペシャリストの最高の統合体であり、企業ガバナンスよりはるかに広く深い、統治能力が求められるというのである。その統治能力は、有権者自身の自己統治能力(自治能力)によってこそ支えられる。
 国民主権の政党政治の基盤整備を下準備から、新たなステージへと飛躍させる―脱無党派・有権者の試練の秋である。