日本再生 296号(民主統一改題26号) 2003/12/1発行

小泉・自公政権に日本再生を委ねるか
民主党の政権政党への飛躍に賭けるか

政権選択選挙の扉は「半分」開いた「脱無党派」の試練をさらに

  自民党と民主党がマニフェスト(政権公約)をかかげて政権を争った今回の総選挙で、わが国の政治は新たな段階に入った。政権選択選挙の扉は、「半分」開いたといえるだろう。
 マニフェストは、政党に対しては政策によって自らを紀律化する責任を問う(「言い放し政治」からの脱却)とともに、有権者に対しても「脱無党派」の試練を問うものである。
 「小泉マニフェスト」を掲げて過半数を獲得した自公政権には、マニフェストの実行責任が厳しく問われる。年金、道路公団、郵政民営化など、もはや「抵抗勢力vs小泉改革」という茶番劇であいまいにする余地はなくなった。選挙で国民に約束した公約を実行するのか、しないのか。そして実行した結果が国民にとってプラスなのかマイナスなのか。こうした業績評価が問われることになる。
 野党(民主党)の第一義的役割は、自公政権に「小泉マニフェスト」の実行を厳しく迫り、「言い放し政治」の延命の余地を断ち切ることである。「小泉マニフェスト」の実行とその結果に対する責任を厳しく問い切るなかからこそ、「どちらがホンモノの責任政党なのか」を示すことができるのであり、その責任性においてのみ「対案」は意味をなすものとなる。
 有権者にも「脱無党派」のさらなる試練が問われる。マニフェストは旧来のような「あれもやります、これもやります」「任せてください」式の公約ではなく、「政権をとれば、いついつまでにこれこれをやります」という“契約”である以上、有権者にとっても「白紙委任」や「好き嫌い」ではなく、どういう理由で投票したのか、判断の根拠と責任が問われるものである。
 消極的な意味のほうがまだ多いにせよ、「政権選択」という意味での投票は有権者のなかではかなり進んだ。その結果が保守新党の消滅、社民・共産の凋落による二大政党化の流れとなった。マニフェストによる政権選択という舞台装置と、有権者のそこへの参加によって、新たな舞台は回り始めたのである。自公か、それとも民主か。今後の選択はこのように設定されている。(自民党と公明党は形式的には別々の政党であるが、選挙はほぼ一体となって戦うことが今回の総選挙で明確になった。これは単なる「選挙協力」というレベルではなく、後援会名簿の提供などを含めた深いレベルでの一体化である。そのような意味でも、今後の政治選択は「自公か民主か」という枠組みになる。)
 この新たな舞台で、さらにはっきりと問うべきである。小泉・自公政権に日本再生を委ねるか、民主党の政権政党への飛躍に賭けるか、と。「白紙委任」(お任せ)や「好き嫌い」の余地はもはやない。そして政権の選択が問われている以上、有権者には「政治不信」を理由に無党派を気取って判断を先送りする余地はないということを、さらに明確にしていくことである。「政治とは可能性の芸術である」(ビスマルク)。政治不信とは可能性への挑戦を自ら放棄することである。
 来年夏の参院選挙は、小泉・自公政権の「中間評価」という性格になる。この総選挙での公約がどれだけ実行されたのか(されていないのか)、実行された結果はどうなのか(国民にとってプラスなのかマイナスなのか)を業績評価することである。そしてこの結果に対して自公政権はどう責任をとるのか、民主党政権ならどうなのかを見極めることが、次の政権選択選挙の扉を開けることになる。
 政権選択選挙の扉が半分開いた新しい舞台の上で、「脱無党派」の試練をさらに明確に問い、国民主権のうねりで前へ!

参院選にむけて問われる「小泉マニフェスト」の業績評価と、民主党の政権政党への脱皮

 年金、道路公団、郵政民営化、三位一体改革など、「小泉マニフェスト」の実行が問われる課題は山積している。マニフェストで選挙を戦ったことで、小泉政権にとっては選挙後の施政方針をめぐる党内調整は必要なくなったが、政権力学的には小泉人気の限界が見えてきたことで、「小泉マニフェスト」であいまいにしてきた点(先送りしてきたところ)が、明らかになってこざるをえなくなる。
 例えば年金。現在の制度を前提に手直しするという枠組みでは、自公は一致していたが、「基礎年金部分への国庫負担を現在の三分の一から二分の一に引き上げる」ための財源をどうするか(何を財源に充てるか)については、公明党は「定率減税の見直し」(=増税)としていたのに対して、自民党は最後まで財源を明示しなかった。
 「年内にまとめる」というのが公約であった以上、このツケはただちに表面化してきた。しかも保守新党が消滅して「緩衝材」の形式がなくなった自公連立では、自公の主張が対立した場合に、それを調整する機能が確立されていないし、首相のリーダーシップもまったく見えないままである。
 厚生労働省案では、(選挙中の首相の発言や公明党の主張を軸に)、現行制度を前提に給付を概ね現役時代の50パーセント程度、負担の上限を20パーセントとしたが、財務省、経済財政諮問会議からは反対の声がいっせいにあがり、政府部内で誰を中心に何をまとめるのか、不明確なままである。さらに、年内にまとめるのは来年度予算に関連する部分だけで、後の部分は来年に先送りするとも言われている。つまり年内に決まるのは、基礎年金の国庫負担率を三分の一から二分の一に引き上げること、凍結となっていた保険料引き上げを解除すること、物価下落に伴う物価スライドを支給に適用すること、という三点ということになる。
 これが「年金改革」という名に値するものだろうか。選挙期間中、もっとも有権者の関心が高かったのが「年金問題」であったが、有権者が知りたかったこと―政策を見極めたかったこととは、この程度のことだったのか。ここからしっかり業績評価をしていかなければならない。ここで責任を問う―自公政権に公約の実行を迫り、その結果に対する責任を問う―ことによって、この現実を変える選択肢として「民主党の考える年金制度」を提示することができる。
 言い換えればこうだ。制度の持続可能性、あるいは公正さ、信頼性といったウォンツや社会ビジョンを共有できる有権者のコアには、自公マニフェストの「年金改革」と民主党マニフェストの「年金改革」とはどこが決定的に違うのかは、それなりに伝わっている。もちろんここをもっときちんと確信的に理解してもらう必要は、まだある。しかし同時に、このコアの層にさらに確信的に理解してもらうには、彼ら自身が「年金はこのままで大丈夫なのか」と「漠然とした不安」から関心を持つ有権者層を説得し、納得させるための活動を伴うことが不可欠である。
 自民党のマニフェストと民主党のマニフェストを読み比べ、自分の関心のあるテーマについて比較検討するようなコアの有権者には、民主党のマニフェストはかなり浸透した。しかしそれ以上には広がらなかった。ここをどう突破するかということである。
 圧倒的多数の普通の人は、自分自身の政治経験を通じてのみ学んでいく。今回の選択の結果、年金問題はどうなったのか。何がどう「改革」されたのか。あなたが望んだような方向に事態は進んだのか。あなたが不安に思っていたことに、解決のメドは見えたか。これで安心できるのか。ここまでをいっしょに考え、検証し、そこで選択肢を示す―それができる活動家(バッジをつけた主権者=議員と、バッジをつけない主権者)が必要なのである。そうしてはじめて、業績評価の道筋が見えてくる。
 政権選択で二大政党化が進むということは、ウォンツや社会ビジョンを共有できるコアの有権者の支持だけではなく、さまざまな異なる動機から参加してくる多様な有権者を再編し、その支持を獲得することが不可欠になる。
 中選挙区では十数パーセントの得票でも一議席を確保できたから、特定の団体や利害関係者の支持だけでも一議席を確保できた。しかし小選挙区では原則的には51パーセントの得票が必要となる。異なる利害関係者のところに正反対のことを言って回り、それらを足し合わせるという「人格分裂」型の選挙をやるか、それともパブリックから政策を訴えて51パーセントの支持を獲得するか。こうした「政治文化の入れ替え」にかかわる攻防が続いてきた。パブリックの政策・政治縁から支持を獲得し、人間関係をつくるという新しい組織戦の型が次第に形成されてきた。
 パブリックから政策を訴えて51パーセントの支持を獲得するというコアの型(政治家と有権者の関係)が見えてきた今、次に問われるのは、さまざまな動機から参加してくる多様な有権者を再編し、その支持を獲得する戦術の多様性である。その多様性を、価値観、ウォンツで統合できるかどうか、でコアの活動家(バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者)の統合能力・有権者再編の幅と深さが鍛えられる。政権選択選挙の組織戦は、ここの勝負にはいった。
 例えば今回、自民党は比例で三七二万票を増やした。公明党との選挙協力で(「小選挙区は自民党候補、比例は公明へ」という選挙戦)比例票が減ると見られていたにもかかわらず、である。伝統的な自民党支持基盤の組織票は、衰退の一途である。ということは、ここには政治への「新規参入」があるということだ。どういう理由であれ、小泉・自公政権を自分の意思で選択したという「新規参入」の有権者に、どのように「業績評価」という意味を初等課程からでも伝えていくか(「純ちゃんと叫んだ私がバカだった」というレベルに止まらせずに)。その有権者教育の能力が必要である。
 あるいは二大政党化の流れが明確になるなかで、社民、共産はあわせて四八〇万票ほどを減らしている(比例)。このうち一部は民主党に流れたと思われるが、相当部分が「投票意欲が萎えた」という「退場組」であろう。これはウォンツや価値観という点からの接点はありえない層であるが、ここが「寝たまま」であれば結果として自公に有利になる。消極的な意味での政権選択の最後尾でついてこさせるという「度量」「懐」が問われることになる。
 あるいは小泉・自公政権で「位置づかなくなる」層。ここの典型は、伝統的な自民党の支持基盤であり、税金のバラマキにぶら下がってきた部分である。政官業の癒着のパイが減っていくなかでここは衰退の一途であるが、「もう補助金には頼れない」と踏ん切りをつけさえすれば、むしろ政権交代の可能性がみえてくれば、そちらに賭けるというソロバンくらいははじける者が少なくない。それ自身は打算であるから、ウォンツや価値観からは相容れないが、公明正大に(献金の全面公開など)付き合えばよい。
 補助金の一括交付―税源の委譲という地方分権が進むにつれて、補助金を地元に持ってくるという国会議員の「お仕事」はいずれにせよ、なくなってくる。かわって地方自治体の役割(首長、議員)と住民自治が大きく問われることになる。議員(国会議員、自治体議員)の口利きをすべて文書化して公開するという自治体も出てきている。こうしたオープンな関係のなかで「政治に口利きを求めない」メシの食い方を覚えられれば、コアの支持者の一角にもなっていく。
 またよく言われるように、今回の選挙結果で公明党のバーゲニングパワーは格段に高まった。連立を組んでいるからといって、何でもかんでも自民党に歩調を合わせるわけではない、ということである。自民・民主の間で公明の選択の幅が広まったということは、論理的に言えば、公明票の半分は民主党が取れるということである。これを地方議員をつうじた裏取引などではなく、堂々たる政策を軸にした政権選択の組織戦でやれるか、ということである。
 公明党支持層の政策性向は、自民党よりも民主党に近い。とくに「平和」と「政治とカネ」については、小泉・自公政権とは距離を感じざるをえないはずである。ここに「一有権者としての選択」を問う型を持てるか、ということである。それがなくて「公明票」にすり寄れば、それへの反発が本来の支持基盤から出てくることになる。小選挙区ではあれとこれの「足し算」ではなく、多様なものを統合する能力が問われる。だからこそ、その指針としての価値観やウォンツ、政策が鮮明でなければならないのである。
 「小泉マニフェスト」の実行責任を問い、その業績評価を問う政策論争―争点化は、こうしたさまざまな有権者の参加形態(ウォンツや社会ビジョンを共有するコアの部分とは違うさまざまな動機での参加形態)を再編統合する組織戦のことである。どの層の参加形態をどこからどこへ持っていくのか。その多様な戦術が、「場当たり」「八方美人」ではなくウォンツや価値観から説明できるものなのか。ここでコアの部分(バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者)の統治能力が試され、鍛えられる。これが、政権政党への脱皮の戦いである。
 年金はもちろん、道路公団でも「民営化とは何か」(道路利権の維持―焼け太りにすぎない「民営化」なら、何のための「民営化」なのか)ということが争点になってくる。「高速道路収入を債務返済に充てる」(結果として高速道路の建設は制約される)案と「高速道路収入も建設費に回して有料道路を造りつづける」案を出して、これから検討するというのでは、いままで何を決めてきたのかという話である。新総裁は「政治のご意思で決めること」と繰り返すが、いったいどこに「政治のご意思」とやらがあるのか。
 三位一体改革も、中央の財政難のツケを地方に回す―手っ取り早く「教育」「介護」などの費用が削られるという姿と、その過程での省庁の縄張り争いが見えている。補助金一兆円削減(総理指示)というのは、政治の意思でもなんでもない。地方分権をやるかやらないか、民営化をやるかやらないかという段階から、どういう中身の地方分権、どういう中身の民営化なのかの具体論を通じて、方向性の違いが鮮明になる(させなければならない)。そこでよりウォンツや価値観を明確にし、コアの部分で共有すると同時に、多様な有権者の参加形態を再編・統合する戦術の多様性を深めていくことを通じて、ウォンツや価値観の理解・共有を深化させることである。
 これがバッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の、マニフェストを深化させる共同作業である。ここにはもはや、政治不信をバネにした参加、「政治家がダメだから育成しなければならない」というようなフォロワーシップの余地はない。マニフェスト選挙とは政党本位の組織戦である。政治縁から人間関係を再編していく能力と幅において、リーダーとフォロワーの関係はつくられる。
 小泉・自公政権の進行は内政の行き詰まり、イラク問題での立ち往生など、ますます「打つ手」がなくなり求心力を低下させていくだろう。来年の参院選までは「選挙のカオ」としての位置もあろうが、そこから先は難しい。あるいは自民党が参院でも単独過半数を確保することがあれば、公明との関係にきしみが生じるかもしれない。こうしたなかで、政権選択選挙の扉をさらに開けられるか。その組織戦のロードマップを作成することである。
 いずれにせよ参議院も含めて、この四年間(来年夏の参院選挙、四年後の参院選、その間に必ずある総選挙)が政権交代の組織戦の勝負どころである。
 小泉・自公政権の“衰亡の苦しみ”か、政権政党へ脱皮するための民主党の“生みの苦しみ”か。どちらに参加するのかが、有権者には問われる。政治不信を理由に、無党派を気取って判断を先送りする余地はなくなった。これが政権選択選挙の扉が「半分」開いた、新しい舞台の光景である。ここで政党本位・政策本位の新たなドブ板の組織戦を徹底して展開しよう。