日本再生 298号(民主統一改題28号) 2004/2/1発行

マニフェストのフォローアップ・深化を競い、
疑似二大政党から脱皮するステージを拓く、
バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の協働を

疑似主権者・疑似二大政党から脱皮するステージと
マニフェストのフォローアップ・深化
〜われわれはどこまできたのか、そしてどこへ跳ぶのか〜

 通常国会が始まった。マニフェスト選挙の結果生まれた「疑似」二大政党によるはじめての論戦の場であり、七月の参議院選挙(中間評価)にむけたマニフェストのフォローアップ・深化のための最初の土俵をつくりあげていく場でもある。
 現状を過去―現在―未来という発展過程からとらえること、言い換えれば「政権選択選挙の扉が“半分”開いた」(総選挙総括)段階からさらに前へ進むためのロードマップを持って現状の諸問題をとらえ、対処することができなければならない。政権交代可能な国民主権の政党政治を打ち立てるための「第一段階」には手がかかった。ここからどのように「第二段階」「第三段階」をめざすのか。めざすべき「第三段階」(政権交代可能な国民主権の二大政党)のイメージがある場合とない場合とでは、現状の諸問題への対処は大きく違ってくる。きわめて戦略的な視点が日々、具体的に要求される。(3面「がんばろう、日本!」国民協議会の役割図を参照)
 マニフェストは単なる「公約集」のことではない。マニフェストの本質は、政党と有権者に不断に責任を問い、国民主権の底上げを図っていくための「仕組み」である。したがってマニフェストの真価は、じつは選挙の後にこそ問われてくる。マニフェストをかかげて選挙に勝ったほう(政権側)が、約束をどこまで、どのように実行しているのか、有権者は次の選挙までそれを検証し、次の選挙では業績評価で投票する。ここまで使いこなしてはじめて、マニフェストの仕組みが一巡したことになる。
 こうしたマニフェストのフォローアップ・深化へと、事態を回していけるか―これが目下のポイントである。マニフェストという写真入りの冊子が、選挙の道具として認知された―ありていに言えば、これが昨年の到達点である。中身の咀嚼まではま
  だまだだった(政党側も有権者側も)ということは、与党側(自民・公明)では中身のあいまいさが政権内の矛盾として顕在化するし、野党・民主党のほうは、実体の伴わない政策イメージの部分でボロが出てくる。
 こうした事態を、マニフェストのフォローアップ・深化へと押しあげていく材料として使いこなせるか。プラスの正攻法でここまでを切りひらいてきたのではない以上(十年の試行錯誤でここまで来た)、マイナス的な事態を「次のステージ」への媒介とせざるをえないのは避けられないし、また当然でもある。ここでまずは、バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の協働が試される。
 マニフェストのフォローアップ・深化へと押しあげていく材料として使いこなす力が弱ければ、与野党が相手のゴタゴタやボロを突つき合うというレベルの「論戦」ばかりが目に付くことになる。そうなれば、「(行動を伴わない)期待」や「評論」のレベルの有権者は「不信」「閉塞」になる。その間隙をぬうように、「二大政党がうまく機能していない」という名分で、小選挙区制度見直し論が亡霊のごとく立ちあらわれることになる。その行き着く先が反政党政治(文化)であることは、論理の必然である。
 (中選挙区論者で知られる小泉総理の「(選挙制度)見直しも必要になるのでは」との発言に、自民党内からも同調する声があがり、自民・民主の間での「埋没」を懸念する公明党からも、「部分的見直し」の声が出ている。さらに社民、共産は明確に「二大政党とマニフェストに反対」である。)
 マニフェストのフォローアップ・深化へと押しあげていく力が強まれば強まるほど、こうした反政党政治へのベクトルは弱まっていき、あるものは眠り込み、あるものは自然消滅し、あるものは生き残りの方策としてマニフェストをとりこもうとする。このステージを切り拓く推進力を、“バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の協働”で創りだしていくことが、まず求められる。そのために、通常国会の論戦を使いこなそう。

 

与党にはマニフェストの実行責任を、
野党には政権担当能力を問え

 与党には、マニフェストの実行責任を厳しく問わなければならない。内容にあいまいさがあったとはいえ(マニフェストは有権者との契約である以上、「見直します」とか「検討します」ということでは、本来はマニフェストたりえないが)、小泉マニフェストを掲げて政権をとった以上、抵抗勢力云々という話はあってはならない。選挙で約束したことがどこまで、どのように実行されているのか。総選挙後八ヶ月経って行われる今年七月の参議院選挙では、その進捗状況を明らかにすることが与党(自民・公明)の第一義的責務であり、これを外してアレコレの「公約」はありえない。これをまず有権者はしかと銘記し、与党に要求しよう。
 ここで問題になるのは、総選挙の際にはできていなかった自民党と公明党の公約のすりあわせであり、一体化して選挙を戦うのであれば当然、選挙公約は一本化されるべきであるという問題である。そのためには、与党内の政策調整がどのように行われるのかがポイントとなる。有権者にオープンにして説明できるような妥協の過程をとれるのか、それとも身内の論理での取り引きのようなことで妥協が図られるのか。
 イラクへの自衛隊派兵、年金の手直しなどをめぐる自民・公明の調整過程は、はたしてどうであったか。選挙協力と政策譲歩のバーターというやり方は、身内の論理の典型であり、そういう妥協調整に長けることを政権運営能力と勘違いされたのでは、肝心なところで国を誤ることになりかねない。
 政権維持のため、という力学が連立のなかで働くのは当然であるが、「何のための政権か」という肝心なところが見えなくなって(国民に説明できなくなって)「何が何でも政権維持」と
  いうことでは、政党は衰弱死することになる。こんなことで、国の命運を決するような一歩を踏み出されたのでは、歴史に再び禍根を残すことになる。(自衛隊のイラク派遣計画国会承認の過程には、つねにこうした姑息さがつきまとってはいないか。) この問題の根底には、少なくない選挙区で公明党の協力なしには自力で選挙を戦うことができなくなった、という自民党の弱体化がある。結党五十周年にむけて憲法改正案をまとめるとしている自民党だが、じつはこうした基礎体力の抜本的強化という問題こそが問われている。いいかえればマニフェストとは政党にとっては、政策の一体性による組織の強化(政党の凝集性)にほかならないということだ。
 民主党はマニフェストを使って「バラバラ感」の克服に一定程度、成功したうえで次の課題が問われているが、自民党はまだ、ここをクリアしていない。政策の一体性で党を強化するということをせずに、党の弱体化を中選挙区への逆戻り(小選挙区制の見直し)でカバーしようという誘惑に負ければ、有権者から見放されることになるだろう。公明党の選挙協力の一方で、小泉マニフェストのおかげでようやくつかんだ「不安な勝利」なのだから。(中選挙区への逆戻りとは、与党の候補者が政府を批判して選挙を戦うという無責任政治が息を吹き返すことを意味する)
 自民党のなかでも、一般有権者の動向をキャッチでき、当然マニフェスト選挙にも主体的に対応できる部分から、抜本的な党改革・強化を求める声が出始めているのは当然であろう。
 一方野党に問われるのは、政権担当能力である。国会での論戦―政府への追及も、これまでとは大きく変わらなければならない。
 

 独自のマニフェストで与党に対抗して選挙を戦った以上、野党が与党の政策に反対であるのは、当然である。問題は「賛成か反対か」あるいは「なぜ反対か」の表明、もしくは「こっちのほうがもっとよい」という対案提示だけではなく、与党の政権運営能力を問うためにも、野党による政府追及・論戦は行われなければならない、ということである。野党はこれを通じて自分たちの政権担当能力を深め、示していかなければならないのである。
 政権交代をしたからといって、わが国が置かれている内外の環境が一気に変わるわけではない。今ある困難な課題に、パッと展望がひらけるというものではない。であるからこそ、今起こっている事態、直面している問題について、どちらのほうが統治能力があるのか、責任能力があるのか、これを競うことが必要なのであり、それを通じて野党の政権担当能力を培養・蓄積していくことが必要なのだ。
 例えばイラクへの自衛隊派遣である。選挙のときは、「派遣に反対・大義なき戦争」ということでもよい。わが国の外交のありかたとして、今の時点では派遣しないという判断はありうる(ただしその場合、日米関係や国際安全保障へのかかわりなどについて、体系的な外交戦略を示すべきだが)。しかし「派遣」をマニフェストに掲げたほうが選挙で勝った以上、「大義なき戦争」「非戦闘地域かどうか」という論戦の枠は、卒業しなければならない。
 例えここで政権交代したとしても、自衛隊をただちに撤退させるとはならないのである。「憲法前文」を読み上げ、国際貢献を声高に叫んで派遣した以上、とんでもない戦闘状態にでもならないかぎり、多少のことで引き揚げるわけにはいかない
  のである。こういう国運を決するような重要なところに踏み込んだ、というところで直面している事態に対して、どこまでの責任能力、政権運営能力があるのか、を追及しなければならない。
 やはりというべきか、小泉総理は度重なる民主党議員の追及に「どうせもともと民主党は、派遣に反対なんでしょ」と言い放つ場面が目立った。ここで「首相の責任のとり方を問うている」「政府与党の政権運営能力を問うている」と、さらに畳みかけることが必要で、そのためには「反対のための論拠」として政府答弁の不備や矛盾を突く、というようなこれまでのやり方・発想の残滓を整理しなければならない。
 この点で民主党のほうにはまだ「大義なき戦争」「憲法違反」という枠での発想が一部残っていて、それが審議の深まりになかなかつながらないという弱点があった。しかし決定的にはやはり、与党側のあまりにも無責任、ずさんな対応が目に付いた。
 「どうせもともと反対なんでしょ」というのは、討論拒否であって、統治能力のなさをさらけ出すものでしかない。そして現地サマワの情勢について首相答弁を撤回する(前代未聞)など、あまりにもずさんさ、いいかげんさが目立った。その揚げ句が、特別委員会の強行採決、本会議での与党単独採決である。
 軍を動かすというのは、国家の最高意思の表明である。賛否あるのは当然であり、それを論議をつくして最後は多数決をするということでなければ、無責任連鎖のツケ回しということになる。まさに戦前の「国策の誤り」はそこから始まっている。
 

 自衛隊の派兵をめぐる国民世論は、すでに五十五年体制の枠にはない。「反対」や「懸念」もわが国の外交のありようを考えるものであり、国民主権に基づく憲法改正も視野に入ってのものである(それを反映しているのが民主党)。そこでの議論を尽くすという手続きを踏まずに、討論拒否や姑息な根回し(「足して二で割る」方式で要員数を決める、調査団の帰国を国会解散の日にずらす、派遣計画決定を臨時国会後に回すなど)を繰り返した揚げ句、その綻びがこれ以上に明らかにされないための強行採決・単独採決というのでは、考える国民(「やむをえない戦争」までは理解する国民)との接点をいかなる意味でも持とうとしない、ということにほかならない。まさに「棄民政権」である。
 これではマニフェストのフォローアップ・深化へと進む文明圏とは逆のベクトルである。こうした政権運営をこそ、問わねばならない。(与野党を超えて)マニフェストに反応した有権者を巻き込んで、ここを突破していかなければならない。それによって与党の側にも「政策による紀律化」を求めていかなければならない。
(注 「やむをえない戦争」という意味は、国民主権と結びつかない主権国家=いわゆる「ならずもの国家」=の脅威に対して、主権国家を絶対的価値としてきたこれまでの国際秩序および国際安全保障システムでは十分に対処できない、それに替わる新たな秩序を模索するための一歩として「やむをえない」という意味であり、懸念や疑念は当然あるし、それらを厳密に検証していく必要は当然あるという意味で「やむをえない」ということ。)

  もうひとつの国家・社会像、もうひとつの選択

 「これまで十数年間の日本政治の停滞は、『改革案はある。あとは実行するかどうかだ』と言われますが、やはりそれだけではないのです。改革案が本当に正しいかどうかは、やってみないとわからないのです。ところが、やったのかやらなかったのかわからないことばかりやっているから具合が悪い。大きな見出しがついてやるのですが、やっているうちに骨抜きになったりして、何となくやったという形、看板はそうだが中身も本当にそうかということです。
 マニフェストというのは、ある約束をどこまでやるかということで〜それをやってみて失敗したらその政策はできないということで、はじめて次に進めるのです」(11面・飯尾潤政策研究大学院大学教授の講演参照)
 改革を叫びながら、何をどこまでやったのかわからない、やったのかやらなかったのかもあいまいなまま―マニフェストのフォローアップ・深化とは、こうしたズルズル状態にケジメをつけることを意味する。小泉マニフェストのおかげで、抵抗勢力を相手に大見得を切ってみせるという手法で、改革姿勢を演出することは封じられてきた。
 すると次第に、なんのことはない、「小泉改革」とは既得権構造の縮小再生産にほかならないことが明らかになってくる。財政にしても、三位一体改革にしても、道路公団民営化にしても、年金改革にしても、既存の配分構造に根本のところでは手を付けず、その構造全体を状況対応的に縮小していくと

いうだけの話である。さすれば「景気回復」が「雇用なき回復」になるのも当然の帰結であり、対外関係が「日米関係さえうまくいけば大丈夫」に収斂しきるのも当然である。
 これを「ウソつき」とか、「ニセ改革」とか言うのは、お子様ランチである。問題は、これではとりつくろいが効かなくなるまでに、内外の環境は完全に別の風景に変わっているということである。既得権構造の縮小再生産を前提に、それに対して「もっとやれ」「いやこっちにもっとよこせ」ということで賛否を競う、という枠組みそのものを、小泉マニフェストのフォローアップによって終わりにすることである。
 それは、新たな枠組みにおける選択肢を準備することによってこそ、主導される。マニフェストの深化とは、このことである。
 例えば、緊縮財政と言いながら(税収不足を補うための)赤字国債は過去最高であり、財政の累積債務はもはや「持続可能性」を脅かす水準となっている。これはとても、五年や十年で解決できる額ではない。一説では五十年スパンの問題といわれることについて、どういうシナリオを描くのか。破綻回避シナリオでも、既得権構造そのものに切り込まざるをえない。あるいは再挑戦シナリオを描くか。その場合には、グローバル市場で勝負できる条件整備(規制撤廃など)は不可欠である。どちらの場合も「激変緩和措置」は必要になるが、その目的、性格、手法は当然、大きく違ってくる。
 あるいは「日米関係さえうまくいけば大丈夫」という発想では、東アジアでの生存権さえ確保できなくなっている。その最大の例証は、中国の存在感である。それも「脅威」という意味ではなく、いまやわが国の「好調な輸出」をダントツで支え、六ヶ国協議をアメリカと協力して仕切る、というかつてなかった存在感である。(付け加えれば、ドル―円―元は「通貨運命共同体」と言ってもいいような状況にあり、これはもはや断
  ち切ることも引き揚げることもできないところに入っている。)
 米中で東アジアを仕切る―この枠組みができる前に日米同盟を再設計し、日中関係を再設計するタイムテーブルを明確に持たねばならない。ここを視野に入れずに、これからの東アジアでのわが国の存在感は確保できない。東アジアでの存在感を確保できずしての「日米基軸」とは何を意味するのか、ということである。こうした風景が見えている場合とまったく見えていない場合とでは、政治行為としての靖国参拝の判断も(個人の信条とは別の次元)、まったく別世界の問題になる。FTAについても風景はまったく変わっている。
 年金制度についてもしかり、である。なぜ制度が崩壊の危機に瀕しているのか。少子高齢化が進んで、受益と負担のバランスが保てないからなのか。それとも現在の制度設計が、社会の現実と合致しなくなっているからなのか。前者なら、制度の維持を前提に破綻を回避しながら手直しをすればよい。しかしその場合でも、厚労省、財務省以下が都合のよい数字を持ち出してきて、「足して二で割る」ような既得権の枠内での調整では、制度の維持は不可能である。
 あるいは四百万のフリーターに象徴されるような、現在の年金制度(社会保障制度全体もしかり)が前提としている終身雇用・正規雇用・片働きということが人生設計の前提にはもはやなりえない、そういう社会になるということから考えるなら、新たな制度設計が必要だということになる。国際競争のなかで勝ち残る挑戦をする、ということであれば、社会が二極化することは不可避である。問題はそれを「勝ち組」「負け組」とするのか、多様な人生設計・時代の変化への多様な参加形態として再統治するのか、これが社会ビジョンの問題になる。(政策ブックレット8・家族と労働をとらえ直す〜自立のためのレッスン 参照)
 

 前者なら最低限の生活保護を手当てするというような、アメリカ型の考え方になるだろう。後者なら、ヨーロッパの教訓(色合いの違いはあるが)から多くを学ぶべき、ということになる。いずれにしてもこれこそ、二大政党が理念と政策を競い、選挙で国民が選ぶということで決めるべき課題である。そのためにも、やったのかやらないのかわからない、という既得権構造の縮小再生産過程を終わりにしなければならない。
 マニフェストの深化とは、こうした新たな国家・社会ビジョンを、国民の人生設計とむすびつけて提示し、選択できるようにすることであり、その深化過程に有権者が主体的に参加すること、政党側からすればそのような開かれた過程をどこまでとれるか、ということになる。
 当然そこには、憲法改正の組織計画をどのようにもつのか、ということも含まれる。国会の憲法調査会は来年、議論の区切りを迎える。参院選の後は、来年にむけて議論をどう集約するかが大きな焦点となる。国民世論の成熟に照応した、論議の土俵を整えなければならない。「九条をいじるか、いじらないか」という発想(憲法で政界再編という発想はここから)や「押し付け憲法」という発想から完全に脱却すべきである。
 例えばこうだ。
 ――九条改憲の一点で、民主党と自民党が合意することもありえますか。
「そういうことにはならない。民主党の主眼は統治の再構築だ。安全保障は統治システムの一部ではあっても、全部ではない。九条だけを変えれば改憲だというのは一九五〇年代の発想だ」
 ――憲法を軸にした更なる政界再編は。
  「それはあるかもしれない。ただ、古い対立軸による再編では意味がない。憲法は大きな論理的体系として包括的に論じるべきだ。九条だけのような個別の政治問題に矮小化するべきではない」(仙谷由人・民主党憲法調査会長/朝日12/29)
 ――GHQに押し付けられた憲法だから改正するという考えはとらないのか。
「とらない。しかし、自分の国の憲法は自分の手でつくるのが原則だ」
――憲法を軸にした政界再編はあると思うか。
「再編はあると思う。憲法改正のための挙党内閣ができるのではないか。軸になるのは自民党と民主党だろう。〜九条のありかたを国民が真剣に考える時が来る」(中山太郎・衆院憲法調査会会長/読売1/24)
 憲法とは何よりも、統治の仕組みの規定である。国民主権という原則を、新たな時代(国民国家の相対化)にいかに発展させていくのか。ここから非常時の権力規定が欠落しているという「致命的欠陥」も正していく。軍事という最高の国家意思の発動についても規定していく。ここで国民合意を図ることである。したがってこれは(憲法の規定上からも当然であるが)、与野党を超えた合意=国会の総意として堂々と発議されなければならない。これは政界再編ではなく、政治そのものの再編(政治文化の脱皮)であり、だからこそ政権交代の基盤整備における重要な一歩として位置づける組織計画を持つべきである。
 マニフェストのフォローアップ・深化を“バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の協働”によって推し進め、国民主権の政治文化の連続的脱皮を図っていこう。