日本再生 300号(民主統一改題30号) 2004/4/1発行

小泉マニフェストを徹底的に検証し、業績評価の一票を参院選で
政権交代に向けた「胸つき八丁」のとば口を、国民主権の力で開けよう

小泉マニフェストの業績評価が問われている

 十六年度予算が成立した。通常国会後半の焦点は道路公団民営化法案、年金改革法案などの重要法案である。とくにこれらは「小泉改革」がようやく具体的な形となったものである。抵抗勢力との茶番劇でどのように「改革」を絶叫してみせても、具体的に法案となって出てきたものが「事実」であり、この検証を通じて小泉改革の業績を厳しく評価していくことが、後半国会の課題である。
 この通常国会は、マニフェストによる政権選択選挙後はじめての論戦の場であり、また五十五年体制の「万年野党」ではなく、政権交代の可能性を持つ野党第一党(民主党)が存在するという新しいステージにおけるはじめての攻防の場である。曲がりなりにもマニフェストを掲げて政権選択選挙を行ったのであるから、それ以前と以後とでは、国会論戦の構え方、国会運営の運び方、報道のしかた、有権者の参加のしかた等を(五十五年体制の政治文化から)大きく変えることが求められるのは当然である。
 問題は、そのための主体的インフラが院内においても、報道機関においても、有権者においても整備されているわけではないということであり、そのなかでどのように新しいステージの回し方を模索してきたのか、ということが前半国会の総括の最大のポイントである。
 「じつはここで難しいのは、政権交代のリアリティーがある野党第一党が出現したというのは、日本の政治史上でも初めてのことだということです。新聞やテレビの報道も、国会のやり方も、まだ五十五年体制を引きずっています。例えば報道でも、自民党が政権党であり続けるという前提で、与党の報道
  が九なら野党が一と、こういうことが続いてきました。本当に与野党が一対一、政権交代可能な二大政党という形になりつつあるときに、それを国民に伝える報道、あるいは国会のシステムがどうあるべきなのか。ここのインフラはまだほとんど整備できていないのです。私たち自身もまだ整備できていません。
 政府を批判すると『批判ばかりしている』と言われる。しかし野党ですから、政府に対する批判精神を失ったらだめです。対案を出してもほとんど報道されませんし、国民のみなさんにも伝わりません。報道されるのは、政府が出してくる閣法だけ。というジレンマのなかにあるのが、今国会前半の状況だと思います。
 われわれ自身も国民のみなさんも、二大政党の一方である野党第一党をどう扱い、どう育てるのかという次のステージにあがってきていると思っているのですが、そこがまだまだ実践的に追いついていないというのが、私自身の率直な感想です」(福山参院議員のインタビュー 16面参照)
 予算委員会を軸とする前半国会を総括するにあたってはまず、こうした模索・試行錯誤の側から徹底して実践的な教訓を深めるという側に、バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者が意識的に立ちきる必要がある。(本号掲載の枝野政調会長、原口議員、福山議員の記事参照)
 マスコミは「ベタ凪政局」と報じる。五十五年体制の政治文化の発想からは、スキャンダルが大きくとりあげられたり、審議日程が遅れたりすることが「与野党対決」の見せ場であり、ニュースバリューがある、ということになる。そこからみれば、ムネオ・スキャンダルが華々しかった一昨年の予算委員会は「与野党対決」で、審議をみっちりこなした今年の予算委員会は「ベタ凪」としか見えなくなる。

 しかしムネオ・スキャンダルの追及が旧来型の金権腐敗批判とは異なったのは、「政治に口利きを求めない国民が自分たちの代表をつくる」までの政治参加の自覚を促すものとなった点である。そこから統一地方選挙と民主党代表選を経て、昨年の予算委員会では「与党が審議拒否したくなるまでの徹底した論戦を展開する」(野田国対委員長)という新たな方針が生み出された。ここまでの蓄積が主体的に見えていなければ、「ベタ凪」という見方に引きずられる。
 この要素を残したまま前半国会の評価をすれば、「野党の追及不足」という「不平不満」になる。その延長から後半国会の運び方を論ずれば、「審議拒否も辞さずの対決型」か「対案提示で粛々と審議か」という表層的な議論にしかならない。
 だが今もっとも重要なことは、小泉政権の業績評価であり、小泉マニフェストの徹底した検証である。政権をうかがう野党第一党の第一義的な役割は、政権政党(自民・公明)が選挙で国民に約束したマニフェストをどこまで実行しているのか、それを徹底して追及することを通じて自らの政権担当能力を示すことであり、政府案と同じような精緻な対案をどこまで作れるか、ということではない。
 例えば予算案の審議過程で大きな問題となったのは、年金資金の多額な「流用」問題である。根本は、人口増―右肩上がりのなかで黙っていても年金積立金が膨れ上がった時代に役人が考えだした「カネの使い方」の問題であり、現在の制度を前提にした「改革」では話にならない、というところにつながる問題である。しかし入り口は、こんなに年金が危ないと言われているなかでまだ、そんな「ピンはね」「流用」をやっているのか!という問題だ。
  (年金保険料が本来の給付以外に、グリーンピアなどの関連施設や事務経費に流用されている問題。坂口厚労相は「これまで徴収してきた厚生年金と国民年金の保険料総額は約三七〇兆円、このうち約五兆六〇〇〇億円が年金の給付以外に使われた」と答弁)。
 予算委員会では民主党の追及の前に「グリーンピアの廃止」を答弁したが、これを今後どのようにつないでいくか。ひとつは、政府の年金改革案ではこうした流用構造には、いっさい手がつかないという問題の追及である。給付減・負担増を国民におしつける以上、こうした流用の法的根拠となっている条文を厚生年金法や国民年金法から削除せよ、というところまで、年金法案審議のなかでおしこんでいくことが考えられる。それさえやらない小泉マニフェストに、年金を安心して任せられるのかと。
 この追及は、国民が信頼しうる制度設計を考えている度合いに応じて鋭くなる。単なる「反対野党」の追及では、年金に対する国民の不安・不信をあおり、「自分にとってトクかソンか」という次元での傍聴者に終わらせることになる。「どういう制度ならみんなが納得し信頼できるか」と考えられる国民は、民主党案と政府案の制度設計上の違いを最初から理解しようとする。それは、昨年のマニフェストもある程度まで中身を検討して投票した層である。
 一方「制度があるから安心だ」という層は、「与党と野党、どちらが信用できるのか」というところから始まる。国民の七割はこちらだろう。マニフェストもイメージ以上には浸透していない。この層に対する「これだけいいかげんな流用を放置したまま、さらなる給付減・負担増をおしつける彼らに任せていて安

心ですか」という問いは、それを投げかける側の真摯さによってのみ届くのであって、対案の精緻さによって届くのではない。
 マニフェストの深化とは、無責任・棄民構造を徹底して追及する責任意識を通じて、安心感と信頼感を獲得していくというプロセスが不可欠なのである。そしてその継続的な活動を、バッジをつけた主権者とともに分かち合い、「ベタ凪」と言われれば「そうかな」と思ってしまう有権者に、新たなステージでの模索を伝えていく役割を担うバッジをつけない主権者の、さらなる主体的なうねりこそが求められている。
 もうひとつは、小泉総理の「将来の抜本改革(制度の一元化)にむけた与野党協議」という「クセ球」にどう対応するか、である。ここでも、主権者不在の政局に陥らない基本原則は、小泉マニフェストの徹底的な業績評価である。政府与党の改革案は、「百年もつ安心な制度だ」として提案されてきたものである。「年金制度の一元化」というのはこの前提そのものの否定であり、「首相自ら政府案が抜本改革ではないと認めた発言で、明確な公約違反」(枝野政調会長3/30朝日)である。
(年金制度の一元化:国民年金、厚生年金、共済年金のように、働き方や職種によって制度が入り組んでいる現在の年金制度を一本化しようという考え方)
 もし「よりよい改革のために与野党協議を行う」というのであれば、今回の政府改正案は撤回するのが当然であろう。民主党はそういう条件提示をすればよい。そして参院選で与党(自公)と民主党それぞれが制度設計の基本的な考え方を提示し、参院選後に本格的な協議に入ることとすればよい。「制度一元化」にむけては財源問題をはじめ、検討しなければならない問題が多いのであるから、基本的な考え方をまず示し
  ておくことが必要だ。昨年の総選挙では、自民・公明がマニフェストを一本化できなかったのであるからなおさら、参院選では与党として考え方を一本化すべきである。
 政府案を撤回しないのなら、(「与野党協議」という発言は)小泉総理特有の政局パフォーマンスということだ。そういういいかげんな発言なら、年金という国民生活にとって重要な問題を「政争の具」とするような政治姿勢そのものも含めて、徹底的に業績評価すればよい。
 政権をうかがう野党第一党にとって必要な国会論戦は、マニフェストに基づいた政権の業績評価である。審判や裁判官になってジャッジすることでもなければ、「万年野党」の告発、糾弾をすることでもない。政府案の問題点を徹底して洗い出し、「マニフェストで国民に約束したことが、これで実現できるのか」と問いただし、「これで問題が解決できますか?」と国民に問いかけることである。そのうえではじめて、「私たちはこの問題をこう解決しようとしています」という対案提示が可能になる。この継続と集大成が、選挙の時の野党のマニフェストとなる。(「選挙にあわせて政策をつくる」のではない。)
 野党第一党にとって後半国会―統一補選―参院選―総選挙というのは、こうしたマニフェストサイクルである。与党にとっては、七月の参院選は業績評価であり、政権審判であるから、小泉マニフェストの進捗状況を提示することは最低限の責任であり、有権者はそのことを与党に要求することだ。
 同時に有権者にとってのマニフェストサイクルは、まず参院選で小泉政権を昨年のマニフェストに照らして業績評価し、一票を投じることである。「小泉さんもどうも信用できないけれど、民主党もぱっとしないし…」というのでは、マニフェストサイクルは前へ進まない。小泉政権を支持するしないにかかわらず、まずマニフェストに基づいて政権を業績評価すること、

それを他の有権者にも広めながら国民主権のさらなる底上げを図っていくこと。これが参院選にむけた課題である。

小泉マニフェストの徹底的な検証と、民主党マニフェストの深化を結びつける
改 革論議の新たなステージを拓こう

 後半国会の焦点とされているのは、道路公団民営化法案、年金改革法案、国民保護法制などである。道路と年金は、予算とならんで小泉改革がようやく、かけ声ではなく具体的な姿として検証されるものであり、国民保護法制は有事法のときの与野党協議の土俵(五十五年体制の不毛な対立を越えた土俵)のうえで、さらに責任政党たりうるのはどちらか、という問題になっていく。こうしたなかで、小泉「疑似」改革の疑似たる所以、あるいは小泉改革が「改革」ぶっていられた空間そのものを、新たなステージへと転換すべき舞台が整ってくる(後半国会の論戦をそのためにつかいこなすべきである)。
 例えば道路公団民営化法案。もはやこれが「民営化」という名前での看板の付け替えにすぎず、「これまでのドンブリ勘定がこれからは洗面器になる」と公団職員が自嘲するようなシロモノであることは明らかである。政府保証をつけた借り入れで赤字道路を造り続けることができ、しかも政府が三分の一以上の株式を保有する「民間会社」などというものが、はたして「民営化」といえるのか。
 ここでまず明らかにすべき論点とは何か。
 国鉄の分割民営化を推進したJR東海の葛西社長は、「(民営化で)一番よかったのは、国会との縁が切れたこと。運賃、
  事業計画、賃金の決定はすべて国会に委ねられていましたが、民営化で、経営の機動性が非常に増しました」と述べている。つまり民営化とは、族議員からの解放、政官業癒着の構造を断ちきることがその第一歩なのである。族議員から解放されてはじめて、「公共性」「公的サービス」という観点から道路建設のありかたを再定義できる。
 民営化とは「無駄な道路をつくらない」ための手段であって、目的ではない。「旧い依存と分配の政治というのは、ほんの一握りの官に公益が独占されているんです。官僚が悪いのではなく、そこから力の源泉を得ている依存と分配の政治が、公益を私物化している」(原口議員 9―11面)。公益が私物化されているかぎり、何が無駄で何が必要かをオープンな議論で合意することはできない。
 同時に現在のようなドンブリ勘定の仕組みは、高度経済成長に入る時の、開発型インフラ整備をおしすすめることが急務だった時代につくられたものであり、その歴史的役割を終えたにもかかわらず、既得権構造として自己増殖し続けたところに淵源がある。これを切り替えることができるのは(既得権に立脚した)与党なのか、それとも野党なのか。これを明確にするには「道路公団の廃止と高速道路の国道化」(高速道路無料化の意味するところを本質的に表現すればこうなる)として、小泉マニフェストを検証する論争軸を鮮明にすればよい。
 この問題は特殊法人改革につらなる問題である。これが単なる「税金の無駄使い」や「天下り」に対する告発・糾弾に止まらないのは、人口増―右肩上がりの時代のシステムを続ける(そのうえでの「手直し」)のか、このシステムそのものを変えるのかという「その先の」論点から引っ張る場合である。

 道路はあるに越したことはないだろう。しかし、全国どこにでも道路をつくれるという時代ではないこと、財源問題もそうであるが、道路を造れば造るほど「ますます減っていくパイを奪い合う」ことになるという時代に、全国どこにも同じような道路を造ることが公益、公共性なのか。こういう議論ができる主体的条件は、国民のなかにも成熟しつつある。マニフェストの深化は、この成熟を促進し、開花させるような論戦を展開できるかにかかっている。
 「その先」には、パイの拡大を競う時代とは異なる価値観―持続可能性とか定常型社会という価値観とそこからの政策観を共有するという「次のステージ」が見えてくる。
 この論点は、年金問題ではさらにシビアである。人口増―右肩上がりを前提にした制度ではもたないことは明らかである。政府の改革案は相変わらず現在の制度を前提にした、給付減と負担増の繰り返しであるが、これ自身が限界にきている。負担面から見れば、厚生年金の負担が毎年引き上げられ、二〇一七年以降は18・30パーセント(上限)となる。この半分は雇用者負担であるため、今起こっているのは厚生年金の空洞化である。偽装倒産(これは違法行為)、いったん解雇して個人と再契約、あるいは正社員をパートに、などという形で厚生年金の雇用者負担を軽減しようというものだ。こうしてますます非正規雇用が増えることになる。
 こうした企業行動は誉められたものではないが、同時に中小企業にとって大きな負担になっているのも事実である。
 一方の国民年金の空洞化(四割が未納)は、正規雇用・終身雇用・片働きという「標準モデル」が人生設計の前提にはもはやなりえなくなってしまった層(フリーターに代表される)の問題である。厚生年金の空洞化は、こうした国民年金の空洞
  化にさらに拍車をかける。これで「安心しろ」というほうが無理である。
 政府の改正案は、いまだに正規雇用・終身雇用・片働きという「標準モデル」を前提にしているが、多くの国民にとってもはやその前提が成り立ちえない時代になっている。そこで、国民が納得できる公正な仕組みとは何か、ということが議論の土俵にならなければならない。民主党案は、その土俵でのひとつの提案である。政府案はその土俵に立っていない。小泉総理の言うように、「将来の一元化」をめざして与野党協議をするのであれば、今回の政府案を撤回するのが当然である。
 年金は政権交代のたびに仕組みが変わっては困るものであるから、与野党が超党派で合意すべき課題である。しかしそれには議論の共通の前提が必要であって、まず、「現行制度の手直し」なのか、それとも抜本改革(制度の一元化)なのかという点を決着させなければ、その先には進まない。
 年金改革をめぐる小泉マニフェストの検証は、まずここに焦点をあてて、問題設定の違いを鮮明にさせるべきである。現行制度の手直し(政府案)と制度の一元化を視野に入れた民主党案の「どちらがよい案か」ということでは、国民も「どちらがトクかソンか」という傍観者に終わる。このレベルで、どんなに精緻な対案を創りあげても、マニフェストの深化には結びつかない。
 「現行制度の手直し」なのか、それとも抜本改革(制度の一元化)なのかという論争軸の先には、正規雇用・終身雇用・片働きという「標準モデル」(右肩上がりの時代の人生設計)が成り立たない時代の働き方や人生設計をめぐる新しい価値観、そこでの社会的公正観の合意形成が見えてくる。それは

パイの拡大を競う時代から、持続可能性に軸足を置くような時代の価値観ということになるであろう。
 そのような時代に富の源泉をどこに求め、また国民経済の豊かさをどこに求めるのかという問題から、国益や国家戦略も再定義されなければならない。一言で言えば、外交経済統合政策であり、その舞台は東アジアである。環境、経済・技術、大衆文化といった日本の「強み」を東アジアの経済統合のなかでどう生かすか。またそれを有利にしうる地域統合戦略をいかにもつか(FTA、通貨安定、地域の平和構築など)。そのなかで、食糧やエネルギーといった「弱点」をカバーする強靭な戦略をいかにもつか。あるいは少子高齢化や都市化、環境問題などの「課題先進国」としてのポジションをどうとるか。そうした角度から必要になる国内の構造改革、さらには産業や技術の高度化のために必要な構造改革とは何か。そして海洋国家、通商国家としての安全保障・防衛戦略をいかに構築するか。ここから日米同盟、日中関係をいかに再設計していく
  か等である。
 また右肩上がり―護送船団方式の時代とは異なる豊かさ、とくに中間層の厚みをどう確保していくか。グローバル競争が激しくなるのは避けられないし、先端分野はどんどん突き抜けていかなければならない。問題はその結果生じる二極化への対処である。アメリカのような社会になることをよしとするのか。そうでないとすれば、どのような社会制度やシステムを展望するのか。年金問題はその端緒であるが、社会保障制度全体についても、こうした観点から再設計していくことが必要になる。ここでもまた、東アジアにおける「課題先進国」としての存在感が問われることになろう。
 小泉「疑似」改革の疑似たる所以、あるいは小泉改革が「改革」ぶっていられた空間そのものを、新たなステージへと転換すべき舞台を準備すること。これをバッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の協働によっておしすすめ、小泉マニフェストの業績評価として参院選を迎え撃とう。