日本再生 302号(民主統一改題32号) 2004/6/1発行

マニフェストの政治文化を定着させる力強き主権者運動へ!
国民主権の常識で「底を打つ」ためのとば口として参院選を戦おう

小泉政権三年目の風景〜国民的常識はどこまで成熟しているか

 小泉政権の三年間をいかに総括するか。イラク情勢の混迷に象徴されるように、アメリカの単独主義が行き詰まりをみせるなか、大局を見誤らないわが国の道をいかに進むか。内外の情勢はますます、国民的常識の成熟―主権者としての「底を打つ」ことを問うものとなっている。
 年金政局がある種の「騒動」の様相を呈し、小泉再訪朝の「賭け」に対しても世論が大きく反応する。二年前、拉致被害者家族に大きな同情を寄せた世論の一部が、今度は「最悪の結果」と批判した家族会へのバッシングに向かう。イラクでの人質事件への世論の反応も含め、これらは「○○には関心があるが、政治には関心がない」という層(無党派層)からの大量の(感情的)参入である。
 これを気に食わないものへの反発、憂さ晴らしに止めるのか、それとも国民的常識の成熟にむけて一歩一歩問うていくのか。バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者のガバナンス能力が、きわめてシビアに問われている。ようやく緒についたマニフェストと二大政党の政治文化を定着させていくために、ここで国民的常識の「底を打つ」こと。これが今日の組織戦の鍵となっている。
   三年前、「自民党をぶっ潰す〜」という絶叫に「純ちゃーん」と呼応した「世論」は三年を経た今日、四割弱は期待が冷めて半数以上が「内閣不支持」になったかわりに、新たに「期待する」層(三年前は期待していなかった)が新規参入して、支持率は相変わらず高い。その構造は「政策は評価しないが、内閣は支持する」というものである(読売4/24掲載の世論調査より)。
 政党には政策による紀律化を求め、有権者には「(選挙の際の)自らの判断の根拠とその責任を自覚する」という脱無党派の試練を求めるマニフェストによって、「世論」の性格もまた鮮明になりつつある。
 「結局、言い古されたことですが、日本では『公』と『私』しかなくて、その中間の『市民社会』がないことが問題です。私的なものを、お互いにエゴをもみ合って公的なものにしていくとか、あるいは公的な命題を個人のさまざまな利益の配分に下ろしていくという媒介器としての市民社会がないわけです。
小泉現象は自分たちと同じレベルの『純ちゃん』『マッキー』で、公と私の直結状態です。個人の生活空間をそのまま公に投影してしまっている」(棟据快行「中央公論」〇一年十月号)
 小泉劇場は無党派の饗宴である。しかし宴はいつかは終わりを迎える。「痛みを伴う改革」「構造改革なくして景気回復なし」との絶叫に喝采を送っているうちに、気が付けば「雇用なき

景気回復」という二極化が否応なく拡大している。自殺者は連続して年間三万人(交通事故の死者は八千人)。「就職もないし、五年先のこともわからないのに、五十年先のためにカネ(年金保険料)なんか払えませんよ」という希望の見えない若者が、大量に生み出されている。
 一方で脱無党派―主権者としての責任の自覚から、饗宴を卒業する分解も進んできた。マニフェストによる政権選択選挙は、それを顕在化させた。好き嫌いや気分ではなく、政策で政党や政権を評価するという政治文化は、政権交代のある市民社会では国民的常識である。「ただの人をタダの人として送り込むことが政治改革だ」という“勘違い”への反省は、マニフェスト選挙―有権者の責任を問う―を媒介にして、「バッジをつけない主権者」としての務めへと意識化されている。ここに、日常活動をもマニフェストで紀律化する(政党本位・政策本位のドブ板活動)「バッジをつけた(つけようとする)主権者」が対応できれば、マニフェストの政治文化は力強く根づいていく。
 小泉「改革」の失政―棄民政治としての性格が全面に出てくる時、そして脱無党派―無責任の反省が「バッジをつけない主権者」としての自覚へと脱皮する時、小泉劇場の風景もまた「純ちゃーん」の延長ではありえない。
 その風景は、例えばこう表現されるものだろう。
 「おのが主義主張を通す……これはかなり能動的な意志を必要とする。誰もが理論や思想の裏付けがある主張をできるわけではなく、世の自己主張の多くは感情的である。〜〜世論というものもその実態は喜怒哀楽の集団的表現である。世論を構成する個々人は常に受け身の立場にあり、メディアの論調や表舞台に立つ『時の人』の言動に流されやすい。
   パフォーマンス政治やワンセンテンス・ポリティクスもそうした受け身の人々にアピールする必要から生まれた。移り気な世論を操作するには複雑な説明はいらない。単純な感動を与えておけばいい。説明よりも逆ギレを武器にしている首相はそう考えているに違いない。政治はまさに通俗小説の方法に基づいているのである」「出版市場は『ベストセラーだから読んでみる』という受け身の読者に支えられているし、無党派の有権者もまた受け身で『だれが政治をやっても同じだ』と消極的に与党自民党の延命に加担してしまう。この不安な時代には国家しか頼るものがないという受け身のナショナリズムが蔓延している」(島田雅彦 朝日5/24夕「文芸時評」)
 受け身でしかも不安な人々に、次々とサプライズを与えて世論をたくみに操作する。この自信が、再訪朝の際にあるテレビ局に対して「同行取材拒否」「取材源を明かせ」という民主主義社会にあるまじき禁じ手の恫喝をかけるという驕りにもなっているのだろう。これほど国民を愚弄するものがあるだろうか。
 情報が一応公開されていて、発言もそれなりに自由にできる民主主義社会では、国民や世論を不必要な混乱に追いやる政治リーダーの行為は罪である(例えば今回の再訪朝、あるいは年金問題でのムチャクチャな発言の繰り返し、イラク問題でも「説明責任」を圧倒的に果たしていない)。思いつきのような発言は、一庶民なら許されるが、一国の最高権力者である総理の発言となれば、受け身でしかも不安な人々(世論)に混乱をもたらし、自分を見失わせることになる。この混乱そのものが政権維持に有利ということなら、それはいかなる政権(権力)なのか。主権者としてこれを正面から問うとは、受け身で不安な人々(無党派)のなかに「自分を見失わないすべ」(国民的常

識の底を打つこと)を組織していくことである。ここがマニフェストの政治文化と二大政党を定着していくために、「バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者」に問われている。
 この混乱こそは「匿名の悪意」の温床である。「(ネット上に噴出する)体制翼賛の言論は理論や思想を持たない受け身の人々の共感を生むように仕組まれているようだ。次は誰を血祭りに上げるか、生贄を求めて匿名の悪意は迷走する」(島田雅彦 前出)。国民的常識―政権交代のある市民社会の政治文化(今日的にはマニフェストと二大政党の政治文化)が根付いていない「弱さ」こそが、「匿名の悪意」を迷走させる。
 あるいはこう表現もできる。
 「独断即決しかも非常識! 小泉純一郎思いつき勝利学!/『すげぇよなぁ。突然の“訪朝”で首相の年金未加入問題が過去の話になっちゃったもん』 思いつきとしか思えない言動の連続なのに連戦連勝!? 『総理は思いつきでものを言う』は、もはや常識。…よし、オレらも“思いつき”でいくぜ!」(週刊プレイボーイより)
 これはオレオレ詐欺の精神世界ではないか? 小泉棄民政治の下部構造とはこうしたものであり、その上部構造には「規制緩和」などを名分に、旧い利権構造に取って代わって「公」を占拠した新興勢力(俗に言う「勝ち組」)がいる。(竹中大臣曰く「規制緩和をすれば、『よいことをする自由』も『悪いことをする自由』も生まれる」!? 公共性や規範と無縁に「自由」はあるのだろうか? まさに戦後の「カラスの勝手の自由」が行き着いた姿である。)
   世論を不必要に混乱させるのはリーダーの問題設定、基本方針が不鮮明であるか、もしくはそうしたものを持っていないからである。政治意思なき時代を終わりにする、とはこういうことを終わりにするということである。政治意思なきところに国家意思はありえないし、政治意思なきところに一国民としての責任意識も生まれない。一国民としての責任意識なきところに、国民的常識は成熟しない。この「底」を打つことである。
 マニフェストとは政党・政治リーダーに問題設定、基本方針を鮮明にし、それに責任を持つことを要求するものだ。そこではじめて選択肢が明らかになる。選択肢が明らかになってこそ、有権者・フォロワーは選択できる。選択肢が不鮮明なら混乱するか、期待と不信の間で右往左往することになる。ようやく緒についたマニフェストと二大政党の政治文化を定着させることこそ、参院選の鍵にほかならない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


国民主権の常識で「底を打つ」ためのとば口として、参院選を戦おう

 小泉政権を支持するにせよ、支持しないにせよ、それをマニフェストに基づいて説明する。そのような政治文化を定着させていく主権者運動の組織戦によって、国民主権の「底」を打つこと、これが、バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の協働の課題である。「年金」「北朝鮮外交」「イラク」といった課題を、マニフェストの観点から扱いきっていかなければならない。
 例えば年金「未納」問題で本質的に問われたのは、立法に携わる公職にある者が一国民としての義務を果たしているのか、ということである。同時に「未納問題」を介して、「年金には関心があるが、政治には無関心」(自分はトクかソンかで全てを見ている)というマニフェストの政治文化には縁遠い人々も、大量に参入してくることになった。
 これは旧来の政策論争の枠では統治不能、「騒動」としかとらえられない事態である。与党はもっぱら、「トクかソンか」「いくらもらえるか」に終始した。これがどういう層を対象に訴えているかは明らかである(不安で受け身の「世論」に根拠のないその場しのぎの「安心」をふりまくから、よけいに不信が高まる)。しかし少なくない国民は「『トクかソンか』ではなく、これは国民としての義務でしょう?」と問い返し、「だから政府や国会議員としての責任はどうするんですか?」と問うた。国民の分岐は、自己責任と国民主権の線に沿って走り始めたのである。
 この分岐を促進し、一国民としての義務に立脚しつつある人々に、有権者としての基準(マニフェストで政権を評価する
  すべ)を与え、受け身で不安な人々に「自分を見失わない」すべを与えることができる組織者としての力量とガバナンス能力が問われている。一国民としての義務に立脚しつつある人には、事実に基づいて理を説けば説得できる。しかし受け身で不安な人々には、理を理として説くだけでは伝わらない。情を分かったうえで理を説く(情理をつくす)という能力・人柄の層の厚さが、「バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の協働」の側には求められる。
 そのうえで、諸問題を「国民的常識の底を打つ」ためにいかに扱っていくか。
 年金問題の混乱は、昨年の総選挙で与党(自民・公明)が統一したマニフェストを明示しなかったことに起因する。まずこれをしかと事実にもとづいて説明しなければならない。したがって来る参院選挙では与党は責任をもって、(三党合意で確認した)年金一元化についての統一した公約を提示すべしと、有権者は要求すべきである。一元化を主張した民主党案をあれだけ批判したのであるから、一元化一般ではなく、どういう問題点をどう解決するのかまでが示されなければならない、というのが国民的常識の最低ラインである。そこからみるとどうか。
 昨年の小泉マニフェストでは「04年に年金の抜本改革をします」とあったのが、今国会で国民の六〜七割が「納得できない」としているまま強行採決しようとしている「百年安心プラン」である。にもかかわらず、参院選の公約には「年金制度の一元化」をうたうという。この事実経過そのものがマニフェスト違反ではないか。こういうムチャクチャな「無理」が通ればマニフェスト文化の「道理」は蹴散らされることになる。ここが国民的常識の

「底」だ。
 この「底」がしかと座ることで、現行の年金制度の問題点(財政がもたない、社会の実態に合わない・不公正、人口減時代のありかたは今のままでいいのか、など)について国民がきちんと認識し合意形成することが可能になる。そこではじめて、(気分や好き嫌いではなく)政策の選択肢が意味をなすことになる。
 昨年の総選挙で緒についたこうした政治文化をさらに定着させていくためには、一国民の義務に立脚しつつある人々がさらに啓発されることと、決定的には受け身で不安な人々の一部が(マニフェストを手がかりに)「自分を見失わないすべ」を手にすることである。(昨年の総選挙では、「マニフェストを投票の参考にした」は全体では四割であったが、「内容も知っていた(「ある程度」も含め)」は、全体では47パーセントに対して、無党派では39パーセントに止まっている。例えばここの落差を埋めることである。)
 北朝鮮外交ではどうか。五人の家族の帰国に対して好意的なのは当然としても、その「余勢をかって」家族会の非難に向かう「世論」には、イラク人質事件へのバッシングと同様の不健全さがある。国民世論が混乱に陥れられるのは、政治リーダーが戦略、目標設定、基本方針をいっさい明らかにしていないからである。ここが国民的常識の「底」だ。そこからすれば今回の再訪朝は「一定の成果であるが、これが首脳外交に値する成果かと言えばそうはとても言えない」ということであり「日本の首相の座の軽さ」(小泉総理の軽さ、ではない!)を露呈させたという評価がもっとも妥当であろう。
 それを家族会の心情から言えば「最悪の結果」「子どもの使い以下」ということになるのは当然だろう。これを「当事者の感
  情」と片付けてしまうことができるのか。拉致は国家主権を侵害する国家的犯罪である。だからこそ「国民の生命を守る」という国家の基本的責任を一国民として問う、というのが拉致問題に対する国民的合意ではなかったのか。それが「拉致を認めて、それでジ・エンド」という北朝鮮の目論見を阻止し、それをあいまいにしたままでの日朝交渉を許さなかったのではないか。そうだとすればここには、一国民の責任に立って政府の責任・外交のあり方を問うという視点が貫かれている。それに答える責務が、一国の権力を預かる総理にはある。そこを問うているのである。だからこそ、「かくも軽き首脳外交」だと言うのだ。
 外交の評価には一定の時間が必要であるし、専門的な分析も不可欠である。一方で民主主義国家では外交も、専門的エリートだけが独占することはできない。世論の支持なしには外交もうまくいかない。だからこそ国民的常識に立った開かれた議論が必要なのである。そのためには何よりも、政治リーダーが明確に判断基準―戦略、目標設定、基本方針―を示す責務がある。それがあってこそ国民は判断が可能になる。逆ではない。「思いつき」や国内政局がらみで外交を扱うようでは国を誤ることになるというのは、なによりも国民が不必要に混乱させられるからである。「かくも軽き首脳外交」とはこのことに対する、根底的な批判であり、ここを国民的常識の底にしなければならない。
 この底が座ってこそ、六者協議と「その後」の北東アジアの地域秩序形成、あるいは中国、統一朝鮮を視野に入れた戦略的展望(日米同盟の再設計とリンク)、この中での日朝交渉etcという「本来の」外交戦略・外交政策の論議が可能になる。外交は国益をかけたものであるからベスト・アンド・ブライテストでなされなければならない。だからこそ、国民を不必要な混乱にお

いやる政治リーダーに外交を扱わせてはならないのである。
 主権移譲を控えたイラク情勢はますます混迷の度を深め、アメリカの単独主義の行き詰まりが露呈しているが、アメリカが撤退すれば済むというものではないことは明らかだ。イラクに安定した秩序と正統な政府をつくりだすために、何が必要なのか。戦争の正当性や大義、占領統治への参画の是非(わが国では自衛隊派兵の是非)をめぐる段階から、問題設定は大きく変わっており、これに対応した論議がどれほど展開できるのかが、バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者に問われる。
 「自衛隊派兵の是非」という窓からのみイラク問題を議論したつもりになる、という空間を終わりにすると同時に、そう簡単に撤退はできないという責任の重さを自覚したうえでの議論がどこまでできるかが試される。イラク情勢の混迷からも、主権移譲後の法的地位をどうするかという点からも、「非戦闘地域」という責任逃れのフィクションが通用しないところに追いつめられている。ここに正面から向き合い、「軍の最高責任者」としての責任を明確にできる指導者なのかを、フォロワーからもしかと問うていく、これを国民的常識の底としよう。
 マニフェストの政治文化を定着させる力強き主権者運動へ! 国民主権の常識で「底を打つ」ためのとば口として参院選を戦おう!