日本再生 314号(民主統一改題44号) 2005/6/1発行

ゼロサム・ゲーム(主導権争い)からプラスサム・ゲーム(“共通の利益”と共生)へのパラダイムチェンジを
北東アジアの戦略的環境変化に立脚した政権選択の論争軸を提起する

グローバル化と地域統合のなかに「より開かれた国益」を見出す政治のリーダーシップをこそ

 ジャカルタ会談で「仕切り直し」の糸口をつけたかに見えた日中対話は、一ヶ月で再び途切れることとなった。総理との会談をドタキャンするというのは確かに外交儀礼上「失礼このうえない」ことではあるが、会えば「言いたくないこと」を蒸し返さねばならない状況なら、むしろドタキャンのほうがマイナスが少ない、というのも「ひとつの政治判断」と言えるだろう。
 「靖国参拝にあれこれ言うのは内政干渉だ」というのは、あまりにも“幼稚”な議論だ。なぜなら第一に、十九世紀および二十世紀の「主権国家絶対」の時代ならいざ知らず、二十一世紀のグローバル化時代では、国家主権は程度の違いはあれ相対化される(されざるをえない)。国家はグローバルな課題の解決には「小さすぎ」、コミュニティーの問題を解決するには「大きすぎ」る。NATOの人道的介入(コソボ紛争でNATOは「人道」という普遍的価値を国家主権より優先し、軍事力を用いた「内政干渉」を行った)や、アメリカの「ならず者国家の体制転覆」は極端な例であるが、グローバル化時代の国益や国家主権をめぐるシビアな外交の舞台で二十世紀型の「内政不干渉」の論理を振り回すのは、あまりにも「子どもじみた」ふるまいと言わざるをえない。
 世論の一部にそういう不見識があるのはやむを得ないとしても、一国を代表する総理が国会で「それを言っちゃ、おしまいよ」ということであり、「世論の一部を紹介したまで」と言うならせめて「総理の靖国参拝に反対する世論もある」と言うのが、与党幹事長としての基本的常識だろう。
   第二に、互いに「未来志向」と繰り返しながら「過去」が蒸し返されるのは、簡単に言えば「未来への見取り図」が描けていないからである。シンガポールのリー首相は「靖国参拝は日本にとって一つの決断だが、コストが伴う。東アジア諸国の反発を買う」とコメントしている。もっとはっきり言えば、「日本にとって靖国参拝は、国連常任理事国入りや東アジア共同体という戦略目標を損なうようなリスクをとってまで、やる価値のあることなのか」ということだ。損得勘定のレベルでもソロバンがはじけないとすれば、「国連常任理事国入り」や「東アジア共同体」というのは戦略目標でもなんでもない、空虚なスローガンだということになる。日本は本気ではない、というメッセージを送る結果になるだけではないか。
 早い話、郵政民営化がどうなろうとわが国の国運に大きな影響はないが、日中がつねに「過去」で躓いて対話が進まなければ、わが国の国益は間違いなく毀損されていく。年末には初の東アジアサミットが開催される。経済レベルでの連携が確実に進むこの地域の「未来への見取り図」をどうするのか。これをめぐる外交の舞台で、いかなる立ち位置を占めるのか。このままでは「東アジアの困ったちゃん」になりかねない。
 二大政党が機能している国ならこういう場合、野党が現状の政府に替わる外交オルタナティブを提起するものであるが、残念ながら民主党の「アジア重視」の外交ビジョンも一般論の域を出ていない。「東アジア共同体」は日本政府の公式目標でもある。問われているのは、そこに向かうためのロードマップであり、それに基づいて流れを変えたり、新しい土俵を設定したりすることだ。これこそが政治の役割―他のセクターと決定的に異なる役割―である。こうした政治のダイナミズムが働かないなかでは、不健全なナショナリズムが鬱積しかねない。

 東アジアの地域統合は、わが国はもちろん中国にとっても韓国にとっても、二十一世紀の国益にかかわる課題であることは、すでに確認されている。しかし損得勘定が明らかな経済レベルの地域統合であっても、それを実現するためには成熟した外交と政治的リーダーシップが不可欠だ。「内政干渉」論を振り回す「狭隘な国益」論を脱して、グローバル化と地域統合のなかに「より開かれた国益」を見出すことのできる政治的リーダーシップだけが見えない。政権交代への胸つき八丁を超えるには、ここを突破することを外してはない。

 国家主義パラダイムか、
 民主主義パラダイムか

 グローバル化の進展は、東アジアの戦略環境を歴史的に変えた。「グローバリゼーションの浸透と大多数のアジア諸国の経済発展に伴い、あるレベルでは自信に裏打ちされた新しいナショナリズムの傾向が見えるし、また別のレベルでは社会的、経済的、文化的変化が各国内の政治的負荷を増大させる傾向も見える。いずれにせよ、社会的、経済的、文化的相互依存の深化が国際協調を強めるという議論は、そのままの形では受け取られなくなっている」(中西寛・京都大学教授/フォーサイト4月号)ということである。
 経済の相互依存の深まりが、単純に相互理解・協調を深めるわけではない。確かに「反日デモ」や「靖国」で深刻な状態になっても、抜き差しならない相互依存関係によって、日中は決定的な決裂には至らない。しかし一方ではフラストレーションがお互いに溜まっていく。しかもそれは交流の不足、相互の無理解によるというよりはむしろ、通信手段の飛躍的な発達によって生じている側面が大きい。
   日本も中国も韓国も、「三十年に一度レベルの大きな戦略環境の変化」(中西寛・京都大学教授/前出)の中でそれぞれ、新しい自画像を求めて脱皮しようとしている。問題はお互いの変化をいかなるパラダイムで伝え、またとらえていくかにある。例えば日本の憲法改正について、中国、韓国の圧倒的な見方は「日本の右傾化、軍事大国化の危険」というものだろう。もちろんこれは現実とは大きくかけ離れている。自民党の常識派を含めて、九条の改正は「自衛権(個別、集団とも)の明記」と「自衛権行使の厳格な抑制・制約」というラインに収斂するし、国民の合意もこうしたところで形成されるだろう。
 しかし「腐った戦後を見直して『普通の国』になる」というような国家主義パラダイムから憲法改正をとらえていれば、こうした事実も事実としてさえ伝わらない。「交戦権の放棄」(九条第二項)は二十世紀型主権国家から見れば「欠陥」であるが、この「欠陥」を「普通の国」になることで埋めるのか。それとも国連決議などによって自衛権行使を制約しようという、国家主権を相対化する二十一世紀型の憲法を目指すのか。このパラダイムチェンジこそ、意識的に伝えていかなければならないことではないか。そしてこの新たなパラダイムからお互いの変化を見ていく土俵をつくっていくべきではないか。
 経済の相互依存の深まりが、少なくとも短期的には摩擦や対立を強めるというのが現在の局面であるが、一方でやはり下部構造の確実な変化は見て取れる。
 反日騒動の渦中でも、例えば上海には「歴史問題で日本に批判はあるが、国際化の時代に通用する人間になるために、デモなんかするヒマがあれば勉強する」という若者がおり、韓国の市場には「日本人観光客が来なくなったら困るから、いつまでもケンカすべきじゃないわ。でも独島は私たちのものよ(ニ

コッ)」というオモニがいる。自由、民主主義という価値を明示的に共有しているわけではないが、単なる損得勘定の相互依存だけではない“共通の利益”に関する合意が、人々の生活レベルで存在している。これを国家主義パラダイムに流し込んでしまうのか、それとも民主主義パラダイムで深めていくのか。ここを意識的に問うことが、それぞれの社会のリーダー層・自覚的な主権者に求められているのではないか。(国家主義パラダイムと民主主義パラダイムについては、12―17面・添谷教授の講演を参照されたい)
 「もう十分謝ったじゃないか」という心情を表すにしても、「靖国で譲歩したら、領土その他でも譲歩することになる!」という国家主義パラダイムに流し込むのと、ここまで築いた“共通の利益”をどこに向かって発展させるのか―未来への見取り図を問いあう、という民主主義パラダイムで表すのとでは、ベクトルがまったく逆になる。
 戦後六十年、とくにこの二十年ほどの間に達成した、それぞれの市民社会的価値観や生活の豊かさに立脚してアイデンティティーを語るのか。一九四五年に帰って「東京裁判は間違いだ」と言わないと語れないアイデンティティーとはいったい何なのか。一九四五年で止まってしまう対日認識(「日帝三十五年」とか「抗日戦争」とか)をバネにしないと語れないアイデンティティーとは何なのか。こうした分岐が国境を超えて北東アジアにも走りつつあるのではないか。

中国の不確実性を東アジア共同体へ踏み込まない口実とし、日米同盟を“逃避港”とするのか、東アジアの安定と繁栄の“アンカー”として日米同盟を強化するのか

   現在、東アジア共同体を展望しうる条件はあるか。共同体というからには、安全保障枠組みやそれを支える価値観、社会理念などを共有する展望が描かれなければならないが、それはまだ「見えていない」。今東アジアにあるのは、経済の相互依存を基盤とする統合関係である(これを制度化するもののひとつがFTA)。そこには「安定と繁栄」を共通の利益とするという“合意”が明確にある。同時に、これを基礎として共同体を目指そうという方向性も確実に芽生えつつある。一方で北東アジアには、まだこの“共通の利益”の枠組みに入っていない問題がある。それが北朝鮮問題だ。六者協議の意義は、北朝鮮をこの枠組みに誘導すること(核開発で得られると考えている「利益」よりも、核開発放棄によって得られる利益のほうがはるかに大きい、という説得の枠組み)、それを関係諸国が協力して行うところにある。
 現にある “共通の利益”の枠組みさえも壊す方向で、北朝鮮問題を「解決する」ことが、東アジア諸国にとって何の利益にもならないことは明らかだ。
“共通の利益”の枠組みをより強固な、「後戻りできない」ものとして打ち固めるなかから、現状の“共通の利益”と(東アジア共同体への)方向性をさらに具体化していくこと。そのためのロードマップとリーダーシップを誰が(どの国の外交戦略が)どのように示せるか―これが「東アジア共同体」をめぐる攻防の性格であり、現在をその学習過程の一歩としていかなければならない。
 このゲームは、二十世紀型の主導権争いではない。グローバル化と地域統合のなかに「より開かれた」国益を見出し、そこから「狭い」国益を相対化していく成熟した政治のリーダーシップの競い合いである。このなかに日米同盟を、軍事安全保

障面の協力のみならず、民主主義・自由という価値を共有した同盟としてしっかり位置付けることこそが、わが国の外交オルタナティブであろう。
 東アジアには「牽制」または「対立」と「協調・協力」という二つのベクトルが並存している。このなかで「中国の不確実性」を語る場合でも、中国の成長が続けばエネルギー受給が逼迫するという事実から、中国とのエネルギー争奪に出遅れないように産油国との戦略外交をすすめ、あるいはシーレーン防衛や日米安保協力を強化しなければならないという発想をするのか(主導権争い)。受給が逼迫するからこそ、共同開発、共同備蓄を進め、相互依存の深まりを互いの「カード」として担保しつつ、シーレーン防衛も強化するという発想をするのか(EUの原点は、石炭を奪い合って戦争を繰り返した独仏のエネルギー共同体)。エネルギー安保といっても、ベクトルは大きく違ってくる。外交オルタナティブに求められるのは、この違い、分岐を鮮明にしていくことだ。

分権化―東アジア戦略―財政改革をトータルに推進するガバナンス改革を

  国家はグローバルな課題の解決には「小さすぎ」、コミュニティーの問題を解決するには「大きすぎ」る。グローバル化と地域統合のなかに「より開かれた」国益を見出し、そこから「狭い」国益を相対化していく成熟した政治のリーダーシップの競い合いが問われるのは外交の領域だけではない。
 冷戦の終焉によって人類史上はじめて、単一のグローバル市場が出現した。それは「資本が国家という枠組みから解放された『資本の時代』」(佐々木毅・東大学長3/17日経新聞「や
  さしい経済学」)であり、国境を超えたグローバル競争の時代である。超国家的な国際機関の役割とそこへの主権の一部移譲が比重を増す一方で、より「下位」の社会や地域、共同体の自主運営・自主決定の比重も大きくなる。
 よい市場にはよい統治が必要だ。分権化とは、よい統治の担い手をさらに重層化・多元化することであり、それゆえ各レベルでのガバナンスに関わる責任(自己統治も含む)が問われる。かようなで意味で、分権化とは国家主権を「上」と「下」へ移譲していくことであるが、その帰結を「国家がなくなる」としかとらえられないのは、まさに国家主義パラダイムである。その裏返しが「地球市民」などという市民主義・無党派主義であり、どちらにも共通しているのは、地域や共同体における自治・自己決定にかかわる責任の欠如である。二十一世紀型の国益とは、地球益とリンクする(グローバル化と地域統合のなかに「より開かれた」国益を見出す)とともに、郷土愛(共同体に関わる責任性)に支えられなければならない。地方分権もいよいよ、このような主権者の主体性を問う段階に入っていく。
 道州制や合併などという数や形の問題なのか、それとも住民自治・地域自立の中身を問うものなのか。人口減・少子高齢社会、東アジアの共存と競合という戦略環境の変化のなかで、全国一律の「標準モデル」ではなく「選択と集中」に転換していくためには、地域や共同体の自己決定を問わなければならない。その視点が欠如した分権論では、国と地方の赤字の押し付け合い、権限の奪い合いという構図にしかならない。当然そこからは人口減・少子高齢社会、東アジアの共存と競合という戦略環境の変化に「脅威」は感じても、それと向き合う主体性は生まれない。こういう論点が、実践的な選択の問題となってくる(ローカル・マニフェストをその道具としよう)。

 「一方で、地域経済協定みたいなものを日本はどんどん結んでいかなければならない。そういう時に、農業でも漁業でもどういう戦略でやっていくのかを本気で考えないといけないのですが、まだ圧力団体がどうだとか、票がどうだとかとやっている。そういうことをやって生きていけた時代は、本当に幸せな時代だったと思いますよ。ぬるま湯の中で、右肩上がりで何をやってもうまくいくような時代は、相当な無駄をやってもやれた時代だったけれども、これから先はそうはいかない。ぎりぎりのところで勝負をしていかなければいかんわけで、その中で最適な方法を考えないといかんと思うんです」(木村・和歌山県知事/関西政経セミナー講演)。
 和歌山県では地域の資産である森林の活用のために、都市部から林業への雇用を進め(「緑の雇用」)、その定着のために「企業の森」(森林整備の費用を企業が負担―これで森林整備の担い手の雇用を確保―企業のCO2排出を森林分と相殺)というシステムを考案している(3/17日経「経済教室」)。都市から第一産業への雇用吸収は戦後はじめての試みであるが、同時にこれは新たな価値観からの共同体構築の試みでもある。まさに地域は関係性、方向性から作られる。その責任性の地平があるからこそ、東アジア戦略に対する主体性、生きた利害も生まれてくる。それが視野に入った財政改革と、全く見えていない財政改革とでは方向性が大きく違ってくるのは当然である。
 分権改革をめぐる分岐も、もはや「国対地方」という構図ではありえない。(「国にモノ申す」「国とケンカする」という形でしか示せない「地方の自主性」とは何なのか。)東アジア戦略の主体性(地域統合に「より開かれた」国益を見出し、その実現のために最適な「選択と集中」を行う主体性を持つ)と分権改革
  の主体性、財政改革の主体性(税金の集め方、使い方の改革)はそれこそ三位一体の相互連鎖である。
 「これから高齢化が進んで、団塊の世代の人が退職し始める。器用に生きることだけが自己実現ではなくて、みんながいろいろな形で自己実現を最後までしていけるような仕組みを作ることが必要で、そのためには日本全国画一主義より、分権型社会の中でそういうものを提起できて、地域がそれぞれに元気があるという中でそれが可能になってくるだろうと思うんです。
 公共事業でハコモノを作るためのお金に比べて、ソフトの施策は桁が全然違うんです。『すごいことをやりました』と大げさに新聞に出るようなことでも、五百万とか一千万。一方で全く記事にもならないようなハコモノや道路は何十億。もしそのハコモノ何十億分を地域から盛り上がったソフトの施策に使えば、日本の国はもっとよくなっていると思います。やはり中央集権では、そういう地域の人たち、NPOとかそういう人たちの、本当にこういうことをやりたいんだということの汲み上げもできないということもあるかと思うので、そういう意味でも分権が必要だと思います」(木村知事 同前)
 国と地方のカネの配分をめぐって地方分権の橋頭堡を築く(三位一体をめぐる攻防)、というステージは幕を閉じた。分権改革に魂を入れる現場は、より身近に責任を問う基礎自治体に移っていく。国は地方に赤字を丸投げできても、基礎自治体には逃げ場がない。ここで責任をとるしかない。「三割自治」では七割、八割の仕事は「決められたこと」を「決められたとおりにやる」だけだったが、それがこのままでは破綻するところに否応なく突き当たっている。自治体の事業仕分けの意味が主体的に入る条件がここにある。

 自治体の事業について、「そもそもいらない」、「民間でやった方がいい」、「県ではなく国でやった方がいい」、「県でなく市町村でやった方がいい」等と仕分けをするということは、「国の役割」「都道府県の役割」「基礎自治体の役割」を(東アジア戦略と人口減・少子高齢社会・定常型などの)新しいステージから再定義していくことでもある。またこうした時代変化のなかでの政府の役割、市場の役割、社会や地域、家庭、個人の役割や責任を再定義し、仕分けしていくことでもある。(自治体の事業仕分けについては「日本再生」三一三号掲載の加藤秀樹・「構想日本」代表の講演を参照)
 「カネがないからできない」ではない「そもそも論」からの仕分けは、国民国家の枠内での「普通の国」の完成ではなく、グローバル化時代における国の役割、東アジア共同体やグローバル同盟とのかかわり、解放された資本・市場の統治、「小さな政府・大きな公共」を可能にする国家―社会とは何か等という土俵で、地球益―国益―郷土愛をトータルにとらえるための不可欠の作業でもある。この主体的基礎のうえに、パーティー・マニフェストとローカル・マニフェストを使いこなせる主権者(バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者)を大量に生み出そう。