日本再生 319号(民主統一改題49号) 2005/11/1発行

政権選択選挙の定着と、主権者運動の脱皮の課題
総選挙総括ならびにポスト郵政の構造改革に問われるもの


小選挙区、マニフェストそして政権選択選挙という
“道具”をいかに使いこなしていくのか

 小泉自民党が空前の大勝を果たした余韻のなかで、特別国会が幕を閉じた。解散・総選挙のきっかけともなった「郵政民営化」の後始末(民主党の対案提出と圧倒的多数での政府案の成立、自民党「造反組」の処分など)が終わり、「ポスト小泉」に向けた(抵抗勢力バッシングに替わる)新たな求心力維持の仕掛けが始まった。民主党は大敗ゆえに誕生した前原体制の下で、脱皮のための本格的戦いが始まることになる。
 「改革を止めるな」という自民党を大勝させた民意の下、議員年金では「即時廃止」を渋る与党が首相の一声で廃止に転換。「改革競争」を掲げる民主党・前原代表との党首討論は、「ようやく党首討論らしくなった」と言われるようになった。五十五年体制の崩壊過程の残滓を一掃した、新しい政治のステージを切り開く戦いが幕を開けようとしている。
 「今回の総選挙は、政治の季節の本格的到来を告げる雷鳴のようなものではないかと思えてならない。90年代初頭の政治改革は、首相中心の政治体制と政権選択可能な政党制の実現という点からすれば、小泉政権の安定と今回の総選挙で、不十分ではあっても一定の成果をあげたということになろう。その道具を使って、政党や政治家、さらには有権者が日本の立て直しに、どのように取り組むかが問われている」(飯尾潤・政策
  研究大学院大学教授/『論座』11月号)
 まさに小選挙区、マニフェストそして政権選択選挙という“道具”をいかに使いこなすのか、それが主権者運動に問われている。言い換えれば「しがらみではなく“政策”で選ぼう」とか、「政権交代で日本を変える」とか、ましてや「投票に行こう」という次元では、主権者運動を主導していくことはできないステージにはいった、ということである。言うまでもなく、ここでの主権者には「バッジをつけない主権者」とともに「バッジをつけた主権者」も含まれる。また当然のことながら、幅広い国民運動である以上、「しがらみではなく“政策”で選ぼう」とか、「投票に行こう(有権者としての責務の第一歩)」といった啓蒙的要素が広範に含まれていなければならない。ここで問題にしているのはそうした運動の主導性であり、戦略性であり、そのための視点である。(それが見えない「啓蒙一般」では、無知に対する優位性という「カンチガイ」の空間もなくなる、という新しいステージに入る)
 小選挙区、マニフェストそして政権選択選挙という“道具”をいかに使いこなすのか。どう使えば政策本位の選択が深まり、有権者・主権者の底上げにつながるのか。どう使えば「風頼み」や大衆操作になるのか。〇五年総選挙をこの視点から教訓化することこそが、新たな政治の季節の本格的到来を主体的に受けて立つ一歩であろう。「有権者は小泉劇場にだまされた」とか「無党派を自民党にとられた」というレベルでは、この新たなステージでの位置はない。

 「これからは分権の時代です。それはどういうことか。A市とB市、それぞれが同じようなプロジェクトを企画したとしましょう。それをどうやって実現するか。A市、B市選出の与党議員がいるかどうか、どちらが実力者か、そんなことは関係ないんです。国会議員を通じて国から補助金をもってくる、そういう時代ではありません。A市選出の○○先生のほうがB市選出の△△先生より当選回数が多くて、ナントカ部会長だから、今回はA市のプロジェクトに予算がついた、そのかわり来年はB市、という時代ではもうありません。
 A市、B市のプロジェクトを実現できるかどうか、それはA市、B市の市民にきちんと説明して合意を得られるかどうか、それだけです。だからマニフェストなんです。マニフェストにきちんと『これをやります、期限はいつまで、財源はこれこれ』と書いてあれば、当選すればできるんです。この市長選、どちらの候補のマニフェストがそうなっていますか? 相手候補のは、そうなっていませんね。こちらの候補はそうなっているでしょう? みなさん、どちらを選びますか。これが分権の時代ということなんです」
 これは、とある市長選での応援演説の一コマである。応援弁士は民主党ではない、自民党の若手幹部だ。街頭演説はもとより、旧来の支持者を集めた屋内集会でもこの基調で通す。この段階までくると、自民党=依存と分配・族議員という発想で、「政官業の癒着」のしがらみを断つ=政権交代というレベルでは、太刀打ちが効かないのは明らかである。小選挙区、マニフェストそして政権選択選挙という“道具”をいかに使いこなすのか―この新しい舞台は、前へ前へと急速に回り始めている。こ
  こで使いものになるのかどうかが、政党にも政治家にも有権者にも問われている。
 この自民党幹部の応援演説に対して、主権者運動の責任性から何か問えるとすれば、「依存体質の地方をつくったのは、田中政治以降の自民党ではないか、その総括は?」ということだろう。これはアンチ発想、反自民のヘラズ口ではでてこない。〇一年は「自民党をぶっ潰す〜」に熱狂し、〇三年(衆院選)、〇四年(参院選)は民主党に投票し、〇五年は小泉自民党にスウィングしたような大都市部の無党派主義からは、自他の責任を問う声はあがらない。責任は「十年一日」の継続と蓄積によってはじめて生まれるものであって、瞬間芸では不可能だ。依存と分配に与してはこなかったという実績、あるいは依存と分配の側から離脱した明確な理由(私的理由ではなく社会的に説明できる理由)なしに、責任性は生まれない。
 こうした責任を問う声に、どう答えるか。「だからこそ依存と分配、族議員の本丸である道路、郵政に手をつけ、身内も切った。党改革も構造改革も本気だ」と、正面を見据えて答えられるなら、本格的な改革競争のステージが始まる。過去の政権運営の責任から自由な民主党は、過去と決別するという与党の決断を凌駕するまでの期待を集めることができなければならない。
 そこでの改革競争とは、公務員の削減数を「バナナの叩き売り」のように競うという類の、小さな政府の競い合いではなく、「二極化のなかでの政府の役割とは何か」「北東アジアの歴史的環境変化のなかでの戦略とは」などという戦略的な方向性と、それに基づくアジェンダ設定を競う、というものになら

なければならない。
 〇七年の統一地方選挙、参院選まで、大きな選挙は当面ないと考えられる。ポスト小泉をめぐるこの一年は、小選挙区、マニフェストそして政権選択選挙という“道具”を「風頼み」や大衆操作になる道を断って使いこなす糸口をつかむ、その実践的教訓を深め、蓄積すべき時期である。
 言い換えれば「自分の一票で政権のあり方を決められる」ことを実感した有権者は、自民党に対しては「改革を進めなければ次は民主党政権だ」という緊張感を、民主党に対しては「自民の本気を超える期待を集められるのか、反自民の受け皿に甘んじていたら次はない」というプレッシャーを与え続けなければならない。そして「郵政民営化に賛成か反対か」という単一争点の「わかりやすさ」ではなく、改革の中身をめぐる複雑な論点を「わかりやすく」伝えることを政党に要求し続け、また必ずしも分かりやすくない話を聞く胆力と作法を身につけ、他者にも伝播していかなければならない。
 
 
 
 
 
 
 
 
  ポスト郵政の構造改革と主権者運動の脱皮

 主権者運動の脱皮という点からの課題は、大きく分けてふたつある。ひとつは、マニフェスト、政策選択、政権選択という意味が主体的に蓄積されてきた有権者を、政権選択を可能にする政治のステージづくりの主体勢力へと、さらに成熟させていくために何をなすべきか。二点目は「小泉劇場」を媒介に新規参入してきた有権者を、「観客」ではなく主体的参加者へと促進していくために何をなすべきか、だ。
 今回の総選挙では、投票率にして八ポイント、約八百万の有権者が新たに参加し、その大半が自民党に投票したと考えられる。それは端的にいえば、小選挙区での候補者が誰だか知らないが、小泉さんを応援しよう、ということではじめて投票に来たという層である。この新規参入がほぼ自民党に上乗せされたため、それに耐えうる「貯金」(小選挙区での独自の集票)がない民主党候補は軒並み落選した。言い換えれば、それだけの「貯金」をしてきたところは踏みとどまった。同時に、小選挙区・比例で約二千万という民主党の「基礎票」も揺らいではいない。むしろ、「反自民」や「自民党にお灸をすえる」という要素よりも「民主党による政権交代を望む」という要素が軸になったという意味で、「基礎票」らしくなった。
 今回は政権選択の結果、政権交代ではなく小泉政権の継続が選択され、それも「郵政」というシングルイシューではあれ、「政策選択」という形で選挙が行われた。このことが見えな

いと、八百万の新規参入を「小泉劇場にだまされた」としか見なくなり、この層へのアプローチはまったくできないことになる。また「基礎票」に対しても「反自民の受け皿」感覚でアプローチしていけば、彼らのウォンツや期待とは乖離する一方になる。
 「面白うて、やがて悲しき小泉劇場」というのは、ひとつの見方ではあるが、ここからは、例えシングルイシューであれ、「政策選択」に参入してきた有権者を、政権選択の主体的参加者にまで促進していく方策も、その主体性・戦略性も見えてはこない。
 今回の総選挙では自民党のメディア戦略が効を奏したといわれるが、郵政民営化の広報戦略から自民党がターゲットとしてきた層は、きわめて明確である。『論座』11月号掲載の東大・朝日共同調査「自民党にスウィングした柔らかい構造改革派」(谷口、菅原、蒲島)が詳しく分析しているが、それによれば「政治経済知識はそれほど豊富ではないけれども、まだ失業など構造改革の痛みを実感しておらず、これまでも小泉首相のキャラクターを漠然と支持してきた人々(B層)」といわれる層である。
 あるいは宮台真司氏によれば、過剰流動性と生活世界空洞化で不安になって「断固」「決然」の言葉に煽られる新保守=都市型保守であり、多様な仕事、多様な趣味、多様な家族、多様な性を、自由に選べそうで、実は選べない。制度的に選べないのに加え、主体の能力が低いので選べない。鬱屈と嫉妬が拡がるばかり。 そこで「決然」「断固」に象徴される小泉的振舞いからカタルシスを得るが、そのあと幸せになれない、という層だ。
(http://www.miyadai.com/index.php?blogid=1&archive=2005-9-3)
   あるいは三浦展氏の分析(消費社会論)によれば、下流社会ということになる。ここでいう「下流」とは階級社会の時代の「貧困」とか「下層」という意味ではない。「コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率も高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ」(三浦展「下流社会/新たな階層集団の出現」より)。
 七割以上の投票率で政権のあり方を決する―政権選択選挙を行うということであれば、こうした層の選挙への参加は不可欠である。問題はその参加方法であり、マネジメントである。「劇場型」なら、敵を仕立ててバッシングして「改革だ〜」と見せれば、自分に関係ないと思っている観客席で快哉を叫ぶということでよい。しかしこれでは、いつでも「被害者」に転じるだけで(カタルシスは得られても幸せにはなれないので)、いつも「誰かのせい」にするしかない。ここからは、国民主権の主体性は生まれない。
 「少数のエリートが国富を稼ぎ出し、多くの大衆は、その国富を消費し、そこそこ楽しく『歌ったり踊ったり』して暮らすことで、内需を拡大してくれればよい、というのが小泉―竹中の経済政策だ」(三浦・前出)。こういう社会でやっていけるなら、それもひとつの選択ではあるが、おそらくそれでは日本社会はもたないだろう。二極化が格差の固定化―格差社会に転じるのか、多様な幸せを選択できる社会に転じるのか。後者の鍵は、いわゆる「下流社会」へのガバナンス力―社会の再統合であろう。そこからすれば、今回の新規参入組を、観客席から国民主権の一参加者へと促進していくマネジメントができるか

どうかは、主権者運動にとって決定的な飛躍の課題である。(『歌ったり踊ったり』:三浦氏によれば、団塊ジュニアの趣味と消費についての動向調査では、階層意識が「下」ほど男性は「引きこもり」女性は「歌って踊って」という傾向が見られる。)
 ここで問題になるのは、「上流」すなわち発信する側の懐の広さや深さ―ガバナンスの幅である。政治家にとってメッセージ力は重要な資質であるが、それに「理」が伴っていなければ、大衆扇動になる。逆に「理」はあっても「情」の世界が分からなければ、メッセージ力にはならない。「情」で伝えられない「理」は、官僚の作文でしかない。
 ここでも「階層の固定化」が問題になる。「最近の新入社員といえば、小学校『お受験』が大衆化した世代の最初の世代であろう。小さいときから『選ばれた』人たち、自分と同じ階層の人間としか付き合ったことのない若者が、社会に出てきたのだ」「生まれたときから東京の郊外の同じような住宅地の同じような中流家庭に育った同じような価値観の若者が増えるということは、異なるもの同士のぶつかり合いから新しい文化が生まれる可能性を縮小させていると言えるだろう。それはいわば『世界の縮小』だ」。(引用は三浦・前出)インターネットの普及は、こうした世界の縮小に気づかない「井の中の蛙」を増やす。使いようによっては「バカの壁」になる。それはまた「自分らしさ」という呪文で壁のなかの快適さに耽溺する「下流の壁」ともなりうる。
 異なるもの同士のぶつかりあいを知らない、世間が狭い「エリート」は、下流のだらだらした生き方をどこまで許容できるか―
  こういう問題が起きてくる。下流はそれを「自分らしさ」として肯定し、上流は「彼らが『下』なのは自己責任じゃないか」と肯定する。そういう格差社会を是とするのか、それとも下流社会化を防ぐ―多様な選択が本当の意味で可能になる社会を目指すか。
 ここからマニフェストの中身、その伝達能力(どういう資質、能力が必要なのか)を再検証し、深めていかなければならない。「多様な人生設計に対して中立的な税制、社会保障制度」と言って、精緻な制度設計をマニフェストに書いたとしても、それを伝える能力がなければ「絵に描いたモチ」にすぎない。伝えるうえでは論理性はもちろん必要であるが、「理を情で伝える」能力、資質、型というものが決定的である。
 またポスト郵政の構造改革の政策課題―財政再建・増税、社会保障、分権、東アジア戦略―についても、この観点からアジェンダ設定と争点設定をしぼりこんでいかなければならない。
 マニフェスト、政策選択、政権選択という意味が主体的に蓄積されてきた有権者は確実に存在するし、そこは崩れていない。ここが「他に伝える」という伝達能力、組織能力をどのように主体化していくか。政党にその蓄積がないのだから、有権者になくて当たり前といって済ませることもできない。今回、小泉旋風のなかでも小選挙区で踏みとどまった民主党議員のところは、それぞれ「政策と顔・名前が一致」するまでの組織(後援会組織)をつくっている。
 議員・候補―事務所・スタッフ―支持者が連携して、マニフ

ェスト・政策を他に伝える活動を回していくことができていれば、シングルイシューで政策選択(ここからの政権選択)という分解に対しても説得ができるし、「それでも今回は小泉さん」という人と引き続き会話ができる。「郵政で支持したのであって、増税や靖国などで白紙委任したわけではない」という有権者は少なくないが、それをフォローできるかどうかは、「政策と顔・名前が一致」するまでの組織をつくっているかどうかにかかっている。そういう接点がなければ、その都度その都度の政策選択は、人間関係として蓄積されない。
 固定的な利害関係で政党支持が固定化され、その「余り」の部分が無党派といわれていた五十五年体制の崩壊過程に終止符が打たれ、政策イシューごとの「その都度支持」の民意が生まれてきたことは一歩前進である。この「その都度支持」を、人間関係として蓄積していくことがともなってこそ、シングルイシューから体系的な政策選択への移行も可能になる。その糸口が開かれなければ、「その都度支持」は「その場限りの選択」に終わってしまい、大衆操作の対象になってしまう。新規参
  入組もスウィング組も、政策で選択したのは間違いない。問題はそれをフォローし、政策選択を人間関係・信頼関係として蓄積していく組織活動がどこまでできるか、である。
 マニフェスト、政策選択、政権選択という意味が主体的に蓄積されてきた有権者が、こうした組織戦―政権選択選挙の基盤整備の中軸を担うこと。「何を言っているか」だけではなく、「実行力」「ロードマップ」「マネジメント能力」などと一体で政策を検証し、選択するという意味が分かってきた有権者が、それに応じた伝達能力、組織能力を蓄積していくこと。それは同時に後援会活動や選挙活動の一部署を担うコアの人材でもある。ここから本来の意味での組織人が形成されてくる。
 政策の指向性や体系性―マニフェストとそれにふさわしい組織能力や責任性、その論理どおりに選挙戦を展開する実践力、そのなかで派生する諸矛盾や人間関係をマニフェストで紀律化する党運営。これらは民主党、自民党の党改革の課題であると同時に、政権選択選挙の基礎インフラを整備していく主権者運動の課題でもある。