日本再生 322号 2006/2/1発行

小泉内閣の功と罪を問い、「あろうべき政党」
「あろうべき、パブリックの活動」を創り出そう


小泉改革の功罪と「三つの赤字」

 通常国会が始まった。この国会は小泉改革の功罪を仕分けして、「ポスト小泉」に方向性をつけるものとしなければならない。
 「ポスト小泉」とは、単なる後継自民党総裁の話ではない。「官から民へ」「小さな政府」を掲げてきた小泉改革を継承するのか、それとも転轍するのか。小泉「改革」の光と影と言われているが、小泉改革を継承して“影”の是正に取り組むのか(自公政権の継続)、それとも小泉改革を転轍することによって“影”に光を当てるのか(政権交代)。どちらの方向からアプローチするかによって、“影”の取り上げ方もまったく変わってくる。
 保守党から政権を奪ったブレア現首相の「ニューレイバー」(新しい労働党綱領)は、サッチャー改革の「意義と限界」を提起したものではなかったし、ましてやサッチャー改革に対するアンチでもなかった。ポスト・サッチャーの課題は、サッチャー改革の継承ではなくその転轍であること、その方向性としていわゆる「第三の道」といわれる対抗軸を提示し、政権交代を果たしたのである。
 耐震強度偽装問題、ライブドア、米国産牛肉問題など、小泉改革の影を問うテーマがここにきて顕在化してきているが、
  「次の政権選択選挙」にむけて、ポスト小泉をめぐる論戦をこのような性質のものへと押し上げていく必要がある。そのために、小泉改革の功罪を仕分けしなければならない。
 小泉改革の「功」とは何か。それは旧田中派から権力を奪ったこと、永田町の枠を超えてその権力闘争に有権者を巻き込むことで、旧来型の自民党政治を基盤から壊したことである。道路に代表される「バラマキ」、それを可能にしてきた「郵貯」に手をつけることは、右肩上がりを前提にしてきた分配政治=日本型社会主義の退場に道をつけた。その結果、自民党は結党五十周年の新しい綱領に「小さな政府」を明記した。
 では、小泉改革の「罪」とは何か。それは「財政赤字」「外交赤字」「(市場経済の前提となるべき)信頼の毀損」である。
 耐震強度偽装問題、ライブドア、米国産牛肉問題といった問題は、小泉改革の継承―是正で解決できるのか、それとも構造的な欠陥であり、転轍(政権交代)によって解決すべき問題なのか。自民党次期総裁候補たちは、前者の立場から小泉改革との距離感を示すことになるだろう。民主党は後者の立場から、うち立てるべき(自民党流)「小さな政府」に替わる旗(対抗軸)を鮮明にするために、これらの問題を扱わなければならない。小泉改革の「意義と限界」では、政権交代のパワーは生まれない。小泉改革へのアンチから影を扱ったのでは、方向性を見失うことになる。
 

●財政赤字
 小泉改革の「罪」その一は、「財政赤字」である。単に〇一年以降も財政赤字を増やし続けた、というだけのことではない。財政再建に不可欠な「歳出の抜本的改革」(右肩上がりの無駄遣い、政官業癒着の打破)と「増税の合意形成」を完全に先送りしたこと。あわせて財政に大きく関係してくる年金改革についても、先送りし続けた。
 小さな政府が何を指すのかについては、いろいろな解釈が可能であろうが、多くの国民が期待しているのは「無駄な歳出をカットすることで借金財政から脱却し、少子高齢化への対応を可能な限り増税によらずして実現すること」(枝野幸男議員メルマガより)であろう。この点からいえば、小泉内閣の五年間は財政再建に道すじをつけるために必要な課題をことごとく先送りした、という意味で「赤字」となる。(財政の実情および構造については、三―六面掲載の大塚参院議員の講演を参照)
 八百兆円近くまで積みあがった財政赤字の原因は、少子高齢化なのか? そうではない。半分は失政のツケ、半分は無駄遣い(政官業の癒着)である。これは小泉改革の継承―是正で、解決できるのか。「官から民へ」の是非一般ではなく、道路公団民営化、郵政民営化、特別会計改革などの実際の中身が検証されなければならない。
 そして転轍で切り込むなら、(右肩下がり、グローバル経済などの時代の)政府の役割を再定義し、そこから政府の仕事を仕分けして「小さな政府」の中身をめぐる論争軸を整理するととも
  に、影を意識し始めた有権者にそれを伝え、共有する活動が不可欠となる。
●外交赤字
 小泉改革の「罪」その二は「外交赤字」である。「日米関係はかつてなく良好だが、その反面アジア外交は逼塞」という枠に収まる問題ではない。中国、韓国と首脳会談が行えない日本は、もはやアメリカのアジア戦略にとっても「困ったちゃん」になりつつある―これが昨秋ごろからのアメリカの対日認識となってきた。イラク戦争での協力にもかかわらず、日本の国連常任理事国入りについて、アメリカから積極的な支持は得られなかったし、BSE問題や米軍再編(普天間移転などの基地問題)も、お互いのフラストレーションがたまる一方である。アジア外交のみならず、日米関係にも赤字の山が積みあがっている。
 アジア外交が行き詰まっている要因のひとつに、総理の靖国神社参拝があるのは事実である。そして靖国神社問題には日中ともに内政の要因がからんでいる(ナショナリズムの台頭)ことが、問題をいっそう複雑にもしている。しかし外交というものは、そういった問題がからんでいた場合でも、戦略的な判断からの「かけひき」や「妥協」を積み上げていくものであろう。米中は表では「人権」や「貿易赤字」で派手にやりあっても、そうせざるを得ないお互いの国内事情を「了解」しあっているから「落としどころ」も見える。それが外交というものだ。それがまったく機能していないという点からいっても、アジア外交も日米関係も「赤字」になるのは当然であろう。
 この赤字をどうするのか。グローバル化とともに社会の民主

化が進めば進むほど、外交も世論に大きく左右されざるをえない。だからこそ政権選択の際には、政党が「国益」をきちんと提示する必要がある。「日米関係がうまくいけば、アジアとの関係もうまくいく」という国益観を継承しつつ(必要だと思えば)是正を加えることで、この赤字は解決されるのか。それとも「東アジア外交は日米外交とともに死活的であり、東アジア外交の現状を打破して日米関係を強化する」という国益観に転轍するべきなのか。もはやこれは「日米をとるか、東アジアをとるか」というレベルの話ではない。アジア外交がこのままでよい、と考える有権者は少ないだろう。そこにこうした政策論争を提起していくことが求められる。
●信頼の毀損
 小泉改革の「罪」その三は、市場経済の前提となる「信頼の毀損」であり、いうまでもなく耐震偽装とライブドアに象徴される問題である。「何を信じたらいいのか、まったく分からない」。これは耐震偽装が発覚したマンション住民の声だ。設計、施工、販売いずれの段階でも偽装が行われ、どの段階にもチェック機能が働かず、関係者すべてに責任があるにもかかわらず、誰にどういう責任があるのかはあいまいなまま、という総無責任連鎖がはびこっている。これは「官から民へ」が問題なのではなく、「官」がそれまでやっていた無責任が「民」でさらに拡散され、個人がすべてのリスクを負わされることになったという問題である。これでは市場経済は機能しない。
   「民間でできることは民間で」というのが小泉改革のスローガンであるが、そのことは、「民間にはできないことがある」ということである。民間ではできないことは何か、それを絞り込み、政府の役割を再定義することが必要だ。「官から民へ」がまともに機能するためには、公正・公平なルール、組織内外のチェック機能(情報開示)、ペナルティーの厳格化(経済犯罪の厳罰化)が大前提である。これが欠けたままの民営化や規制緩和では、「バレなきゃいい」「稼ぐが勝ち」が大手を振るう。
 ライブドア事件は規制緩和の下での「時価総額経営」の暴走(粉飾決算、インサイダー取引、マネーロンダリングなどの疑惑)であるが、監査法人はもとより、東証も証券取引等監視委員会もそれをチェックすることはできなかった。そして経団連の奥田会長も小泉自民党総裁も、目先の利用物としてホリエモンにアプローチした。(目先の利害しか考えないところには、統治に関わる判断基準はいっさいないことになる。)
 よい市場にはよい統治が必要である。そのために政府がはたすべき役割に集中するためにこそ、右肩上がりの時代の政府の領域からはすみやかに撤退する―これが規制緩和の基本であろう。小泉改革の継承―是正で、それができるのか。それとも転轍によるべきなのか。それを問わなければならない。
●脱「瞬間株主」
 脱「瞬間有権者」
 ライブドア事件がこれほど社会問題となったのは、株式一万

分割によって大量の株主が存在したことと、その少なくない部分がいわゆる「デイトレーダー」と呼ばれるネットを使った個人投資家であることにもよる。その行動スタイルは、投資家というよりも投機家に近い。
 「筆者が堅実な個人投資家から話を聞いていて、投機的なトレーダーの意識と決定的に違っている点に気がついたことがある。それは企業の不正に対する反応だ。例えば、有価証券取引報告書の虚偽記載に対してどう思うかを尋ねると、ベテランの投資家は、市場の信頼性が揺らぐことは個人の株式離れを生む、と怒りを隠さない。〜中略〜一方、新参のトレーダーは、不正には無関心な場合が多い。企業倫理と株式投資は関係ないという顔をする」(熊野英生「中央公論」1月号より)
 ライブドアの暴走の背景には、企業価値よりも値動きを重視して短期間に売買を繰り返し、業績や統治に無関心な「瞬間株主」(日経新聞1/27)の増加がある。そこには『下流社会』(三浦展)に描かれているような社会構造―「自分の階層は下流だ」からこそ、ホリエモンのような一発逆転に熱狂する―もあるだろう。それはあたかも、郵政劇場に熱狂し「小泉サンのところの候補者」に投票した「瞬間有権者」と重なる構図ではないだろうか。
 問題は「熱狂の後」である。デイトレーダーの少なくない部分は、賢い投資家になるための教訓をここからつかむだろう。成熟した強靭な市場のためには、制度やルールといったインフラ整備とともに、賢い投資家―よい統治の基礎となる自己統治―の育成が不可欠である。同様に、二大政党やマニフェスト
  といった“道具”がより上手く使いこなされるためには、賢い有権者の育成が不可欠である。たとえ「瞬間」であれ選挙に参加した有権者が、引き続き「より賢い有権者」へと成長していく舞台として、小泉改革の功罪を問う論戦を展開していくことが求められている。
 信頼や公正の担保を政府にのみ求めるなら、それは「お任せ」「おねだり」にしかならない。信頼や公正を担保する役割の一端は政府にあるが、社会にもその大きな役割・責務がある。「官か民か」ではなく、問われるべきは「官であれ民であれ、担うべき公共とは何か」であろう。小泉改革の継承からそれを示すのか、それとも転轍の側でそれを示すのか。それを政党に問い、また賢い有権者になるべく他者と共有していくことが、自覚した主権者の役割となるだろう。

格差社会とは何か、
選択社会へ転轍するための政治闘争とは

 「希望格差」「下流社会」という言葉が流行するようになり、与野党がこぞって小泉改革の光と影―格差の拡大を指摘し始めた。しかし、格差とは何を指しているのか。二極化というが、「総中流」の価値観からアプローチする場合と、選択社会への転轍という観点からアプローチする場合とでは、見えてくる風景は大きく異なってくる。「二極化は是か非か」とか、「格差は拡大しているのか、否か」といった議論では、この方向性の違いは見えてこない。

 「希望格差」「下流社会」という言葉が指しているのは、明らかに旧来の階級的格差―持てる者と持たざる者との格差―あるいは物質的な富の所有とは別の性質の、社会的な格差の存在である。(だからそれを「統計上、格差が拡大しているとはいえない」と言うこと自体が、あまり事態をお分かりでないということになる。)
 ベストセラーとなった『下流社会』(三浦展)は、「仕事の意欲、勉学の意欲、コミュニケーションの意欲、消費の意欲、総じて人生への意欲が低い」ことを指して「下流」と言っている。あるいは「希望学」を提唱する玄田有史氏は、こう述べている。「経済学や社会学で、世の中の現実を扱うときには、たとえば、給料はいくらかとか、休みが何日あるかといった数値で表せる事柄が主な課題になる。これはいわば客観的な現実です。そんな客観的な現実の合理的な選択によって効用を最大化すると経済学では考える。しかし、現実というのは、客観的な現実だけでなく、主観的な現実も多くを占めている。動機とか、やりがいを感じると言った主観的なことも、重要な現実です」(中央公論2月号・新春特別対談)
 「希望格差」「下流社会」という言葉の背景にあるのは、人間の意識活動―意欲や、やりがい、希望など―までが格付けされる、そこまでの市場経済の時代の社会だといえる。だからこそ一方には「自分は下流だ、だから人生の一発逆転に熱狂する」という者が生まれ、他方に「世のため人のため」「パブリックのやりがい」を求めてキャリアアップするという生き方も生まれる。後者からは本格的なNPO活動(行政の下請けや補助金頼みではなく、政府・市場とともに公益を担う自立した存在としてのNPO)や、本来の意味の政党活動といったパブリックの
  活動の具体的な担い手が見えてくる社会的条件がうまれるだろう。
 逆に護送船団・総中流の社会では、こうした人間の意欲の差、意識活動の差はすべて消し去られた。そうなれば公私の区別もなく、官も民もすべてが私物化(公益の私物化)となる。公務員に公僕はなく、企業にコンプライアンスはなく、「市民」に公民なしとなり、政党は選挙のための互助組織でしかなくなる。こうした総中流の社会意識から「格差」にアプローチすれば、「勝ち組」「負け組」の評論以上は見えてこない。(ところで自分で選択した人生を「勝ち、負け」とは言わないだろう。)この延長に「公正・公平」は見えてこないのは当然である。
 総中流―結果の悪平等という不条理と戦うことなしに、社会的公正は打ち立てられない。同時に「機会の悪平等」(形式的な機会の平等、実質的な不平等)を是正する戦いが不可欠である。「低位の満足に甘んじることが自由だ」ということを放置する社会こそが、格差を再生産―拡大する社会だということである。
 「格差社会」の背景には、資本主義、市場経済の変容という問題もある。
 岩井克人氏は、産業資本主義の時代には、利益の源泉は資本(カネ)であり、効率であったが、知価社会とか高度情報化社会といわれる「ポスト産業社会」では、利益の源泉はヒト(やる気、アイディア)に代わると述べている(中央公論2月号)。ヒトは必ずしもお金では買えない。アメリカ発の株主主権論は、護送船団・株式持ちあいを打破するという点では一定の有効性があったが、ポスト産業資本主義の時代には、会社をモノとしてではなくヒトとして扱うことが重要になる(論旨)。

 ヒトが主体の市場経済のありかたは、いかなる戦いから模索されるのか。実体経済の十倍もの投機マネーが飛び交うゲームは、いまや現実の生活・国民経済を破壊する力さえ持っている。新自由主義的な価値観は、野放図なグローバル金融ゲームに国民経済さえも投げ込もうとするが(その上で、そこから生じる弊害を是正するものとして「政府の役割」が規定される)、その道を行くのか。それともグローバル金融ゲームに巻き込まれない国民経済の市場を創出する道を模索するか。グローバル時代の共生経済という問いが、抽象的なものから現実の戦いになりつつある。
「地球共生国家日本」とは、グローバル化時代の統治原理として「共生」という価値観をもつ国柄を目指そうということである。選択―責任―連帯、あるいは社会的公正とは、この統治原理における社会運営原理にほかならない。それを具現化する主体的条件は生まれつつあり、それをさらに成熟させること、それが「選択社会」への転轍のステージだ。
 一九九八年(金融敗戦と言われた年)を境に戦後的日本社
  会は大きく転換したと言われる(例えば「希望格差社会」山田昌弘)。今年二十歳になる若者は、当時十三歳。社会意識を持ったときから「格差社会」が前提となってきた世代の中から、「世のため人のため、それがやりがい」という生き方が、奇特なものではなくなりつつある。一方で護送船団・結果平等に巻き込まれず、あるいはそれと同化せずにやってきた部分のなかからも「世のため人のため」を具現化しよう、そのために自分のスキルを社会的に生かそう、といううねりも生まれている。こうした人たちが賢い有権者として日常的に政党と関わり、あろうべきパブリックの意識活動としての政党とは何かを問う―「がんばろう、日本!」国民協議会は、そういう世直しの運動体を目指そう。
 出でよ、新たな公を創出するために戦う草莽の志士よ。集え、パブリックな生き方を希求する友よ。市井の賢人よ、知恵と経験を「世のため人のため」に生かそうではないか。小泉改革の「影」―その不条理と戦い、新たなパブリックをともに担う世直しの輪を!