日本再生 323号 2006/3/1発行

政治不信の道を断って、あろうべきパブリックの主権者運動の確立にまい進しよう
―草莽崛起の闘争精神の回復を―

 
パブリックの活動としての主権者運動こそが
問われている

 小泉改革の功と罪を仕分けし、ポスト小泉の方向性=小泉改革の継承か転轍か=をめぐって、政党間論争の新たなステージへの糸口をつける――これが今通常国会の問題設定であった。与党は「行革推進法案」をはじめとした小泉改革の総仕上げと位置づけ、野党はBSE、ライブドア、耐震偽装、官製談合といった小泉改革の“影”を追及するところから検証する。これが論戦の基本構造としてセットされた。…が、「メール事件」ははしなくも、こうした問題設定から論戦を展開し、事態をマネージする主体性は、与野党ともに既存政党のなかにはまったくない、ということをものの見事に露呈させることとなった。
 民主党・前原執行部は今国会に臨むにあたって、「対案路線」を目指していたはずだ。その行き着いた先が「メール事件」では、あまりにもおそまつではないか。「4点セット」の追及は小泉改革の“影”を明らかにし、転換すべき方向性を提示するためのものであって、敵失狙いではないはずだ。百歩譲って敵失を狙った追及をするにしろ、ライブドアに関しては粉飾決算、マネーロンダリング、インサイダー、投資事業組合といった問題が本筋だろう。市場の公平性、秩序を誰がどのように歪めたのか、そうした抜け穴(市場の誤作動)を防ぐシステムをどう作るか――よい市場は、こうした積み重ねによってこそ築かれるものだ。
   こうした問題設定がはっきりしているにもかかわらず、そこから事態をマネージすることがまったくできていないということは、マニフェストが何ひとつ組織になっていない(マニフェストによる紀律化がいっさいなされていない)ということだ。
 一方で「(国政調査権という)権力の発動には慎重であるべきだ」という自民党の主張は、一般論としては正論であるが、与党が権力維持のために発動する場合と野党が求める場合とでは、おのずと性格が異なるという常識さえ、誰も言わなくなったところに問題がある。「与党が自ら国政調査権発動を求めることは自粛すべきかもしれないが、今回は野党が求めている。それを自民党が拒否したので、国民は『(自民党は)後ろめたいから拒否したのではないか』と疑っている」(田村元・元衆院議長/読売2/24)。「メールの真偽」をめぐって、一週間以上もの「政治空白」を生じさせる、それを腕を拱いて見ているということで、政権政党の統治能力たりえるのか。五十五年体制ならそれでもよいかもしれないが、二大政党時代にはこれでは与野党の緊張感は生まれない。
 二大政党、マニフェスト―政権選択選挙という“新しい皮袋”の形式は整いつつあるが、その中に入れるべき“新しい酒”(政党政治)はまったく未確立である(腐造!?)。「官から民へ」や「小さな政府」の是非をめぐる論議から、「政府のありかた」や「(民にはできない)政府の役割」、「官であれ民であれ、担うべき公とは何か」という新しい論議のステージは整いつつあるが(情勢はそれを求めているが)、既存政党にはそこから事態をマネージする主体性はない(個々の問題意識一般はあったとしても)。これが現在の局面である。

 ここから、「だから政治は信用できない」「与党も野党も同じじゃないか」と政治不信に返るのか、それとも「やっぱりわれわれが主権者としてしっかりしなければ」と主権者の自覚をさらに深めるのか。有権者、国民自身が本質的に問われている。
 これで政治不信に返るなら、所詮、その程度の有権者だったということだ。その程度という意味は、応援するにせよ批判するにせよ、既存政党の従属変数としての主体性でしかないということである。既存政党の従属変数なら、新たなステージへの飛躍は自力ではできない。新しい皮袋に新しい酒が入ったことが見えて初めて、その結果への態度表明(支持か反対か)ができるのであって、新しい皮袋を縫い上げる作業にも、新しい酒を仕込む作業にも関わる主体性はない、ということだ。
 それが間違いだというのではない。誰もが時代を切り開くことができるわけではないのだから。問題は、新しい酒を仕込むために四苦八苦している時に、それを見守るフォロワーとしての忍耐力を持たねばならないということだ。一度や二度「腐造」を出したくらいで「不信」になって不満をぶつけるようでは、「よい蔵元」を育てるフォロワーにはなれない。新しい酒が今は見えなくても不満をぶつけたりせず、忍耐力をつけるために励ましあう―そういう主権者運動も必要なのだ。
 そのためにも決定的には“新しい酒”を仕込むこと、つまり既存政党に従属しない、独立変数としての主権者運動が問われる。すなわち時代観、問題設定を自力で持ち、それを組織論、運動論としてまで展開する主体性を持つこと、そこから政党を検証し、育成するという主体性をもつことである。あろうべきパブリックの主権者が見えてはじめて、(選挙互助会とは異
  なる)あろうべき政党とは何かが見えてくるのであって、逆ではない。本来の意味の政党は、パブリックの主権者運動の豊かな土壌のなかからこそ育成されるのであって、逆ではない。政治市場、有権者市場という“共有地”をよりよいものへ成熟させるためのパブリックの活動が見えてこそ、本来の政党活動が見えてくる。逆ではない。
 先進的な市場経済においては、イノベーションの民主化が進む。これまでイノベーションはメーカー主導で進められてきた。この枠ではユーザーの要求に対してメーカーが「それは無理だ」ということもできた。つまりユーザーはメーカーの従属変数であった。しかしイノベーションの民主化が進むと、ユーザー自らがメーカーの枠を飛びこえて新製品を開拓するようになる。リナックス(パソコン基本ソフトウェア)の例はあまりに有名だ。
 この比喩を用いれば、政治市場においてメーカーは政党、ユーザーは有権者である。メーカー(既存政党)の従属変数ではないユーザー(有権者)が、自ら新たな製品を提案し、要求する。それが例えばマニフェストの創発であり、またその検証であり、あるいはタウンミーティングの開催や公募などの候補者擁立・育成であり、ということになる。
(創発:局所的な相互作用を持つ、もしくは自律的な要素が多数集まることによって、その総和とは質的に異なる高度で複雑な秩序やシステムが生じる現象のこと。所与の条件からの予測や意図、計画を超えた構造変化や創造が誘発されるという意味で「創発」と呼ばれる。元々は自然科学系の用語であるが、マネジメントの分野では、一人一人の個人の発想の総和

を超えた、まったく新しい知の創造を行う取り組みを称する場合が多い。)
 あろうべきパブリックの主権者運動とは何か。これが見えなければ、政治は行政権力に近づくことしか意味しなくなる。田中政治は退場し、「あろうべき公」「政府のありかた」をめぐる論議の舞台はセットされつつあるが、その政治の舞台に上がるべき主体は準備されていない。この局面を打開するのは、あろうべきパブリックの主権者運動の問題設定を鮮明にし、それを組織論、運動論としてまで展開すること、それ以外にはない。

小泉改革の功と罪を問う論戦―市場経済を前提にした問題設定と論点

 今通常国会に求められているのは、小泉改革の評価をめぐる真剣でまじめな議論だ。「小さな政府」を掲げてきた小泉改革を継承するのか、それとも転轍するのか。その真剣な議論があってこそ、ポスト小泉の方向性(次の政府のあり方)が見えてくる。それがなければ、ポスト小泉は自民党内派閥抗争次元の話にしかならないし、それでは民主党には出る幕もないことになる。
(転轍という表現をあえて使っているのは、「小さな政府」に「大きな政府」を対置するというイメージでポスト小泉を理解する道を断つため。田中政治・総中流に風穴を開けたという前提で、あえていえば「小さな政府の中身」=政府のあり方、その方向性を問うものとして、継承か転轍かと表現している)
   「小泉改革の光と影」という論戦は、(日本なりのやり方での)市場経済が前提となっているところから、構造改革の諸問題(財政再建、格差、分権、外交など)を整理するという問題設定から出発する。市場経済が前提になっていないところで、小泉改革の“影”を扱えば、「市場主義か、反市場主義か」「効率か、安全か」「格差か、公平か」という不毛な二項対立に迷い込むことになる。
 反市場主義の延長にパブリック、公とは何かを主体化することは不可能である。護送船団・総中流の窓から「格差社会」を批判しても、生きた実際は何ひとつ見えてこない。ホリエモンをボロクソに批判するのは勝手だが、「市場原理主義」をいくら批判しても健全な市場はつくれないし、「下流と自認するからこそ人生の一発逆転に熱狂する」というホリエモンに夢を託す若者に、何かを伝えることもできない。
 市場経済を前提にした問題設定とはどういうことか。
 例えば財政再建。五年前の自民党総裁選は、「財政再建よりも景気対策」という亀井氏と「構造改革なくして成長なし」という小泉総理の間で戦われた。それ以前、橋本政権ではじめて財政再建が政治のアジェンダとなり、不良債権処理、金融危機との関係で、マクロ経済政策がはじめて政治のテーマとなった。「小さな政府」で決着がついた今、財政再建をめぐる論議は、「財政再建か、景気対策か」という二項対立ではもはやなく、市場の失敗をどのようにマネージするかという性質のものになっている。
 当然ながら、その政策論争は政府サイドから始まる。成長率

論争はそのひとつの焦点だ。成長率の見通しをどこに置くかによって、国債管理、金利、税(増税のタイミング、歳出削減圧力)などマクロ経済政策の全体像はかなり違ってくる。財政再建シナリオA、財政再建シナリオBという形で財政再建の選択肢が示されるなら、それは「次の政府のあり方」に直結もしてくる。
 財政赤字が小泉改革の継承によっては解決できない、転轍によってこそ解決できるとするなら、この論戦のなかに主体的な旗を立てなければならない。野党が税金の無駄遣いを徹底的に追及することは、もちろん重要であるし、必要である。しかしその先に、どういう財政再建シナリオを描くのかが見えなければ「先送り批判」以上は出ないだろう。市場の失敗をどうマネージするかという現実社会の生きた分岐は、すでに「先送り批判」のはるか先で生じている。ここに照準を合わせてこそ、無駄遣い批判は生きてくる。
 付け加えるなら、次の政権選択選挙においては「郵政民営化に賛成か反対か」というレベルでは選択肢たりえないのであって、財政再建シナリオA、財政再建シナリオBというレベルになるべく近い選択肢の成熟が求められる。そのためには一般有権者のなかでも、経済政策をめぐるフォロワーとしての主体性を、ある程度まで準備しなければならない。外交なら、「北朝鮮はけしからん」「アメリカは勝手だ」で分ったつもりになれても、経済はそうはいかない。経済政策では、「専門家」と素人のギャップはきわめて大きい。しかし経済は生きた生活であ
  り、今日明日の生活と将来の人生設計に関わる問題である。そうした生活の実際から経済政策を主体的にとらえるすべを、主権者運動として(バッジをつけた側もつけない側も)準備することも、次の政権選択にむけた課題であろう。
 あるいは外交についても、東アジア外交戦略をどう持つかが問われている。日米関係もアジア外交も大事というレベルではお話にならない。自民党内ではポスト小泉がらみで、「アジア戦略研究会」が発足する。ポスト小泉の外交政策上の争点も、「靖国云々」というレベルではなくなりつつあるということだ。もちろんこれが派閥再編次元の話に終わる可能性もある。しかし現実の国際環境とそこから生じる社会的経済的分岐は、はるか先に生じており、政党がその現実の中に主体的な政策論争の旗を立てられるか、ということが本質問題である。それができなければ「蒋介石政府を相手にせず」と言って外交を放棄したかつての歴史を繰り返すことになる。
 東アジアでメシを食う―これはわが国の死活問題である。そうである以上、東アジアの経済統合プロセスを有利にマネージすることを外して、わが国の外交はありうるのかということだ。この観点があっての日米同盟強化と、それがまったく見えずに日米同盟強化というのでは、意味するところがまったく違ってくる。
 あるいはアメリカの東アジアへの関わりが「警察官」「安全保障」に限定されるものなのか。少なくともアメリカは国益上も、そうは考えていないだろう。経済的なチャンスを考えている以

上、アメリカと異なる位相で中国と駆け引きできる主体性を持つ日本と、それを全くもたない日本とでは、アメリカにとっての利用価値はどれだけ違ってくるか。そういう計算ができずに「同盟」はありえるのか。こういうことが問われている。アジア戦略の必要性一般ではなく、その中身を問うこと抜きに、小泉政権下で積みあがった「外交赤字」を決算することはできない。
 格差問題ではどうか。
 生活保護世帯の増加(十年前の一・六倍)など、定量的な側面から「格差」を論じる向きが少なくないが、はたしてそれで今日の格差社会をとらえることができるだろうか。例えば企業の人事採用の現場では、中途採用における人材の格差が顕著だと言う。三十代の中途採用の場合、それまでの十年をフリーター、アルバイトで過ごしてきた人と、何らかの組織に属して働いたことのある人との格差である。学歴や資格、技能とは相対的に別の、組織のなかで訓練され身に付ける素養(社会性といってもよい)は、二十代をフリーターで過ごした後からではなかなか身につけられるものではない。このまま放置すれば、こういう格差が世代をまたいで固定化されかねない。これをどう是正するか。
 総中流・護送船団の枠からは、こうした格差は見えてこない。意欲を持つこと、目標を持つことが結果の差に反映するなら、それは「よいこと」だろう。総中流・護送船団では、そうした人間的意識の差すら、結果の悪平等に飲み込まれ、私物化の物欲に置き換えられた。この窓から「格差」を見れば、「勝ち組」「負け組」の評論にしかならない。そこには大量の「待ち
  組」「ぶら下がり組」がへばりつく。この構図のなかで「格差是正」を論じることは断じてできない。
 こうした結果の悪平等と戦うこと。人間の意識活動までもが「格付け」される、そこまでの市場経済を前提にするからこそ、挑戦する意欲も生まれるし、選択する意思も生まれる。ここに立ちきってこそ、今日の機会の悪平等(形式的平等・実際の不平等)と戦う主体性も手にできる。
 例えば先述した人材の格差。二十代をフリーターで過ごしたのも「本人の選択、自己責任」とだけ言ってしまえば、この人材の格差は世代を越えて固定化される。それで安定した社会が維持できるのか(社会の持続可能性)。意欲を持つこと、目標を持つこと、その機会がじつは不平等であり、それを是正すべきだという観点に立てば、「労働」と「教育」はきわめて重要な政策になる。
 教育については、教育基本法がどうこうとか、ゆとり教育がどうこうという話にはならないはずだ。社会に出て働いて自分でメシを食う、という就労教育の基本が前提にならなければならないし、三十代の人材格差を子ども世代に固定化させない公教育が具体的に求められる。
 また労働においても、同じ職場で同じ労働をしていても、正社員、パート・アルバイト、派遣社員、契約社員、請負など多様な雇用形態によって、待遇がまったく違うというのはよいことではないだろう。多様な雇用形態を選べる、ということと「正社員になりたくてもなれない」ということとは大きく違う。同一労働同一賃金とか、最低賃金などが、高度成長期とは違う次元

で、社会の持続可能性、市場の持続可能性の問題として考えられるべきではないのか。(年金の一元化をはじめとする社会保障の問題もしかり)
 これを行政の仕事(労基署や公立学校など)としてのみ、考えるべきではない。そうした不条理と戦うすべを新しい世代が手にした時に、そこに「低位の満足に甘んじない」新たな意欲
  や目標が見えるはずだ。そうしたパブリックの社会運動、主権者運動があってこそ、行政の仕事も公的なものとなるのであって、逆ではない。
 市場経済を前提にした問題設定から、「政府のあり方」を議論する。その新しいステージを自力で切り開く主権者運動として、「がんばろう、日本!」国民協議会の役割を担おう。