日本再生 330号 2006/11/1発行

自由・民主主義の土台として市場経済を使いこなし、
自治分権の深化のための「共有地」として整備する成熟した民意を
〜賢明な政策判断を下せる有権者になろう〜

改革の継承とは何か
自由、民主主義の土台としての市場経済

 安倍政権は中韓歴訪からスタート、まずまずの安全運転といえるだろう。歴史認識についても、持論を「封印」する形で野党の批判をかわした。北朝鮮の核実験という「共通の懸案」を前にして、「歴史問題」を「大事の前の小事」とすることができるだけの合理的判断を、少なくとも日中政府はできる、ということだ。その前提となっているのは、市場経済である。日本はもとより中国も、グローバル市場に深くコミットした「戦略的互恵関係」にある。(そこから「経熱」でさえあれば「政冷」でも大丈夫だと開き直るか、それとも相互依存という事実を「資産」として使いこなす戦略を持つのか。)
 振り返ってみれば、「小泉政権は、おそらく戦後史上初めて、市場経済システムそのものを政治が目指すべき価値であると(暗黙に)宣言した政権だった」(小林慶一郎「論座」10月号)といえる。それを象徴するのが、経済財政諮問会議を「改革のエンジン」とする政策決定メカニズムであり、そのための権力闘争が旧経世会に象徴される族議員―派閥システム潰しであったといえよう。市場経済は単に生活を豊かにする手

  段ではない(それだけなら「カネがすべて」ということになる)、自由や民主主義の前提である。
 安倍政権に先送りされた課題は少なくない。財政構造改革、分権改革、教育改革、格差社会などの内政上の課題に加え、外交においても核保有国・北朝鮮をめぐる真の難題はこれからである。これらの政策課題をめぐる論戦を、市場経済の常識を前提としたものとして展開できるかが、与野党の本格的攻防に問われている。
 「市場経済を、豊かさを得るための『手段』と捉えるなら、市場の原則を無視したような政策(いわゆるバラマキ/引用者)を融通無碍に採用することにためらいはない」(前出・小林)。しかしグローバル市場ではこれは通用しないことが、九〇年代後半の「経済敗戦」で否応なく明らかとなった。
 東西冷戦の崩壊は、旧東側諸国をも組み込んだ「単一の世界市場」を歴史上初めて出現させた。長引くデフレの本質はバブル経済崩壊の後遺症ではなく、大量の安価な労働力を擁する中国という巨大市場が隣に誕生したことによる構造的なものである。このグローバル市場に対応しうる政府の役割、そのための政府の再構築こそが「改革」の原点である。
 その点で財政再建をめぐる論議は、総裁選から組閣までの

第一ラウンドでは、財政均衡論に対して市場重視の成長シフトが鮮明となったが、参院選をにらんだ来年度予算の攻防が第二ラウンドとなる。「市場経済を、豊かさを得るための『手段』と捉え」、「市場の原則を無視したような政策(いわゆるバラマキ)を融通無碍に採用する」ことへの後戻りの要素をここで派生させるべきではない。
 また一方で『政治とは生活である』というのも、市場経済を「豊かさを得るための手段」と捉えるものではないし、ましてや市場経済に生活を対置するものでもない。われわれの生活はグローバル市場を前提としている(せざるをえない)。富の源泉、蓄積、分配のシステムが以前とは様変わりしたなかでの生活なのである。FTA(自由貿易)のなかで発展できる農林水産業とはなにか。高付加価値のモノづくり―知価社会の時代を担う人づくりとはなにか。住民自治を競い合う自治体間競争とはなにかetcといった視点から、言い換えればグローバル市場を前提とした生活のありようから「政治とは生活である」という論戦を展開できるかが、民主党には問われるだろう。
 外交においても、市場経済の常識が前提になるなら経済戦略外交は急務である。グローバル市場が富の源泉であるということは、「戦争で決着をつける」ことがますます出来にくくなる一方、ますます増大する共通の利益のなかに国家間の係争を埋め込んでいく戦略が必要になる、ということである。例えば「領土」が解決しなければ対ロ経済協力も進まないとか、「靖国」が解決しなければ首脳会談ができない、といった外交
  は市場経済が前提になっていないと言わざるをえない(経済協力を進めながら「領土返還」を多面的に主張し続ける戦略外交)。(同時に、破綻国家や大規模テロといった「やむをえない戦争」が必要な問題も一方にある。)
 北朝鮮核実験を機に、政府・与党内から出てきた「核武装」論も同様である。論理的にも、日本が核武装するということと日米同盟(アメリカの核の傘)とは両立しえない。アメリカが求める核不拡散(正義とはいい難い要素があったとしても)に真っ向から対立して核武装する日本は、グローバル市場のプレイヤーたりうるのか。
 またGDP規模がまったく非対称で、なおかつ国民の犠牲をなんとも思わない北朝鮮と日本との間で「核抑止」は成立しえない。中国との間では核抑止は成立するかもしれないが、日中が核開発競争を展開するシナリオと、日中がFTAを結ぶシナリオのどちらが市場経済を前提にしたものかは明らかであろう。
 「唯一の被爆国」という情緒的思考停止や、その裏返しの「独立国家としての核」武装論は世論の一部にはあってもよいが、これを契機に政策決定の場において明確に、わが国が核武装しない合理的判断=国益をどこに見出すのかを整理することも必要だろう。
 もちろん市場経済は万能ではないし、完全無欠でもない。欠陥だらけのシステムだからこそ「社会的公正とは何か」「公正なルールに基づく競争なのか」を不断に問わなければならない。

 とくにこれからは、医療に代表される今まで商品経済のカテゴリーになかった分野に市場原理が入ってくる『市場の社会的深化』(テッサ・モーリス・スズキ)が大きな問題となる。
 しかし例えば医療に競争を導入するといっても、患者が病院を選ぶのはAスーパーを選ぶか、Bスーパーを選ぶかということとは次元が違うし、医療関係者と患者との間には(一般的な意味での)市場原理が成立しないほどの非対称性が存在する。一方でこれまでの規制がいわゆる「供給サイド」の保護に偏って、ユーザー(この場合は患者)の権利保護がおろそかになっていたことも事実である。
 医療などの分野に競争原理を導入するという際に、どの観点に立って公正さを担保するのか。そこを議論しなければならない。それは市場経済を否定することではないし、単なる金儲けのシステムと見なすことでもなく、自由や民主主義の土台、「共有地」として不断に整備していく、そのために何をなすべきかということにほかならない。

「不平等をもたらす市場を肯定すること」と
「結果として生じた不平等を肯定すること」は異なる

 安倍政権をめぐる攻防の大きな課題のひとつは、まちがいなく「格差」だろう。「格差」問題の本質はグローバル市場における「公正とは何か」、そしてそれを誰がどう担保するのか、そ

  こにおける政府の役割とは何か(政府の役割の再定義と再構築)という点にある。そこを見失うと、木を見て森を見ない結果となる。
 『希望格差社会』の著者、山田昌弘氏はこう述べる。
 「近年の格差問題が深刻である理由は、前節で考察した収入格差拡大、および、家族形態の多様化による生活水準格差拡大が『構造的要因で生じていること』、つまり不可避な傾向であること、そして、格差拡大が搾取や抑圧といった不当な要因で生じているわけではないことである。もし、格差拡大が一時的な要因(「小泉政権の失政」のような/引用者)や単なる『搾取』といった不当な理由で生じているのなら、それを是正する方策は容易であり、是正に関する社会的合意を得ることもできるだろう。しかし、現在起きている新しい格差現象は、そうではない」(『新平等社会』)
 もちろん大企業が行っている偽装請負のようなものは、明らかに悪質な違法行為であり、それを「グローバル競争に生き残るためには人件費のコストカットが不可避」という論理で正当化することは許されるものではない。ルール破りをしたものがトクをするという「市場」は最終的には淘汰される。
 ここでいう「構造的要因」とは筆者の言うニューエコノミー、いわゆるグローバル市場の出現である。それは「生産性という意味で、労働者を二極化させる。中略〜専門的中核労働者は、創造力、想像力、情報スキル、美的センスが必要な仕事に就き、高い生産性を発揮する。中略〜一方で、定型作業労

働者は、スキルアップが必要でない仕事、マニュアルどおりに働けばよい仕事に就き、生産性の大きな上昇は期待できない」(前出・山田)。そして時給七五〇円の(代替可能な周辺的)労働者と時給七万五千円相当の中核的専門職は、理論的には市場でその生産性が百倍違うと評価されたものであって、それを不当ということはできないだろう、ということなのだ。
 市場によって生じるこうした所得の一次分配における格差はますます広がっており、それを国家・政府の干渉によって大きく変えることはできない。しかしこの格差を放置すれば、社会の安定そのものを損なうことは明らかだ。
 初期資本主義の「荒々しい市場」から生じる二極化を是正したのは、福祉国家の再分配メカニズムであった。その前提となったのは大量生産・大量消費の工業化社会である。この前提そのものが、グローバル市場・ニューエコノミーの波に押し流されている。
 市場による労働評価の二極化は不可避である。つまり「生産性の低い職はなくならない」し、家族の多様化が避けられない以上「家族で不利益を被る人もなくならない」。問題は「不平等をもたらす市場を肯定すること」と「結果として生じた不平等を肯定すること」は異なる(前出・山田)、ということだ。格差をめぐる論議を、ここに転換しなければならない。
   
新たな公共の担い手を生み出す分権と自治

 「結果として生じた不平等を是正すること」は、政府だけの役割ではない。再分配で是正するとしても、それは単に税金や社会保障による再分配だけを意味するものではなく、むしろもっと多様な社会的扶助の仕組みが必要だろう。
 収入格差は不可避だとしても、労働の市場価値とは別の論理で人々が生活する基盤を構築する必要があるということである。いいかえれば「公共」を「官」のみならず「社会」「協働」が担う多様な仕組みということであり、キーワードは分権と自治になるだろう。
 例えば「基礎所得」という考え方がある。要約すれば次のようなものだ。
「@市場の価値から生じる所得の一次分配における格差はますます広がっており、その一次分配を国家の干渉で大きく変えることは難しい。
A雇用可能性がもっとも低い人々が就く仕事の賃金の市場相場は、社会が許容できる貧困ラインを大きく下回るところまで低下してしまうので、あるいは失業者給付の形で、あるいは失業者に対する社会扶助の形で、収入調査を経て給付される社会扶助というセーフティーネットが利用される度合いが


高まるだろう。
BAは次のことを意味する。(a)給付コストの漸進的増大、(b)そのための行政費のさらなるコストの増大、(c)受給者を二級市民と見なすことと、それからくる社会問題。
Cこの結果、障害者年金を除き、所得・資産調査を要する福祉給付制度をすべて廃止し、暮らしていくのに十分な収入を基本的な市民の権利としてすべての人に給付することが賢明な代替策と見られるようになるだろう。たとえ、GDPの四〇%くらいの負担を覚悟しなければならないにしても、健全な市民社会を維持するにはそれしかない。この権利には社会に対する何らかの奉仕作業をする義務が伴うことになるだろう」(ロナルド・ドーア『働くということ』)
 このような基礎所得―社会奉仕が、初期資本主義の時代の救貧事業や福祉国家の再分配と同列のものではなく、むしろ江戸時代の「役回り」のような「社会的有用労働」と位置付けられるためには、分権と自治の拡大が不可欠となる。(ちなみに江戸時代がまれに見る「小さな政府」であったのは、幕藩体制という連邦的分権と「大きな自治」による。鎖国時代ではなく、グローバル市場の時代にこの歴史的経験を生かせるか、という問いでもある。)
 それは同時に(自治体)公務員の職務の再定義にも連動する。例えば「これからの行政職は、まず法制職―法律の解釈
  や条例の制定・解釈ということと、PFIや民間委託をきちんと管理する業務管理、それから新しい施策をつくる企画力、最後に仕事をきちんと評価して、続けるのか止めるのか、コストがどうなのかなどを監査し評価する。この四つに関わる職員以外はいらない。ほかの業務・サービスは臨時職員でもいいし、NPOでもいいし、もちろん民間企業でもいい」(石川・稲城市長「日本再生」三二四号インタビュー)ということになる。
 自治の現場ではこうしたことが具体的な課題として見え始めている。その気になれば国政よりもずっと「具体的に動けば具体的に変わる」という主権者としての実感もリアルなものとなる。公共について討議を通じて合意形成していく場としての議会も見えてくる(そのような場としての議会が見えないのだ、という議会改革の問題設定が具体的なものになりつつある)。グローバル市場を前提とした生活の変化が見えれば見えるほど、それに対応するための行政の役割の再定義、市民参加・協働の再定義、二元代表制を機能させるための問題設定etcがリアルに見えてくる。
 ここで市場経済を自由、民主主義の発展の基礎として使いこなすことを、生活のなかで体得する、そういう有権者によってこそ「市場を前提とした政策論争」の舞台が準備されてくる。安倍政権をめぐる攻防を、賢明な政策判断を下せる有権者になるために使いこなそう。