日本再生 334号 2007/3/1発行

自治分権への確かな一歩を踏む出す「強い一票」を!
地に足のついた改革競争をさらに推し進めよう!

 
自治分権の確かな一歩を踏み出そう

 今年の統一地方選は、分権改革の第二ステージをいかに開くかという攻防になる。一九九九年の地方分権一括法は、国と地方自治体を上下・主従の関係から対等・協力の関係とする「歴史的転換」点となり、分権改革の第一ステージが幕を開けた。改革派といわれた知事が脱中央集権、脱官僚を推進し、改革派市長が個性的な自治体改革を推し進めた。
小泉政権下での「三位一体」改革は、三兆円の税源移譲を成し遂げたものの権限移譲はほとんど進まず、きわめて不十分なものであったが、補助金や公共事業の見直しは、改革を進めてきた自治体と旧態依然の依存体質の自治体との“格差”を明らかにした。またこの税源移譲によって、ほとんどの勤労者にとっては今年から、国よりも自治体に納める税金のほうが多くなる。「誰がやっても同じ」という「三割自治」の時代には考えられなかった、自治体の質が生活の質に直結することを実感する時代が始まることになる。
「納税者の視点に立つ改革を目指す首長と議会を選び、税金の使途と結果を十分説明する財政情報の公開や、住民の監視と住民参加を強める自治体にするのか。それとも、旧態依然の感覚しかない首長と議員を漫然と選び、税の使い方を実質的に自治体の官僚組織に委ねてしまうのか。それを選ぶのが、今回の統一選になる」(読売1/4「解説」青山彰久)
   こうした自治分権のリアリズムから遠い度合いに応じて、市場経済の実際から遠い、依存体質の生活だということになる。統一地方選をめぐる実態を見れば、東京とくに二十三区が、もっともその実感から遠いことは明らかである。宮崎、北九州、愛知さらには鳥栖など、地方ではローカルマニフェストを掲げた選挙戦で投票率が大幅にアップし、住民の意思が明確になる選択が行われている。自治分権をめぐる主体格差―政治市場の格差は、きわめて鮮明になっている。
行政内部での「国から地方へ」という官治分権の段階から、住民自らが決定に参画し責任を分かち合う自治分権の段階へ。その確かな一歩を踏み出すことが、この統一地方選の課題である。
 分権の核心的意義は、自治体運営にかかわる権限、財源を市民のコントロールが効くところに置くということである。夕張市の財政破綻の責任は、放漫経営を放置した首長、それをチェックしなかった議会とともに、漫然と彼らを選んできた市民にもある。しかし同時に、市債の発行は国、県の許可なしにできないという制度では、市は自立した自己決定のできない「禁治産者」にも等しい位置づけとなる。自らの責任で借金をする、ということになってはじめて、どうやって返すのかまでを本当に考えることになる。
 そうしてはじめて、「補助金をどうもらうか」ではなく、「自力で稼ぐためにどうするか」という知恵が働く(知恵が働くものと働かないものの格差が明らかになる)。三位一体改革で増え

た税収を漫然と「お役所仕事」に使うのか、一千万の予算で五千万の効果を生むような仕事のしかたを考えるのか。市民のコントロールが効くということは別の言い方をすれば、市場経済を生活で共有することが前提になった世界の常識に合わせる、ことにほかならない。
 自治の仕組みが機能するための基本は、選挙である。選挙を通じて住民が何を選択したのか、その意思が明確にされなければならない。ローカルマニフェストは、その重要なツールである。「有権者に政策を示し、マニフェストを提起できなければ選挙戦はもはや戦えない。さらには、後だしもありえない。一つの陣営がマニフェストを提起し政策選択選挙を挑んできた場合、身内を如何に固めるかに終始すれば、いわゆる無党派層を獲得できないだけでなく、肝心の身内の一部からも見放される。これが福岡市長戦・宮崎県知事選そして北九州市長選と引き続く選挙で、時間を経るごとに鮮明になっている事実である」(3面・加藤同人の報告)。
 また市民のコントロールが効くためには、議会の役割が決定的に重要になる。議会は自治体の意思決定機関である。そこが「何をしているのか分からない」「誰がやっても同じ」では、自治分権は進まない。
   各地で首長の関係する談合が摘発された。首長が襟を正すことは当然だが、不正をチェックできるかどうかは、首長の自己規律という次元の問題ではなく、議会が二元代表としての最低限の役割を果たしているかという問題である。公共事業案件は金額、受注業者とも議会の承認事項であり、議会がスルーせずにちゃんとチェック機能を果たしていれば、どこかで防げる問題である。さらに一般競争入札で金額を抑えることよりも、何のためにどういう事業が必要なのか、という政策立案過程を議会がきちんと担うことのほうが、よほど重要である。安いだけの大手ゼネコンに任せるのがいいのか、(多少金額は高くなっても)周辺環境を熟知しメンテナンスにも継続的に責任を負える地元業者のほうがいいのか、という政治判断を市民に開かれた場で行うことが、議会本来の責務であろう。
 自治体の意思決定がどのように行われたのか、それを市民にオープンにして説明責任を果たすことが議会の役割だ。二元代表制の首長と議会は「車の両輪」では困る。首長と議会がいつも同じ方向を同じスピードで走っていたら、なぜA案でなくB案になったのか、そもそも複数の選択肢が検討されたのかなど、意思決定過程が市民には見えないことになる。

 また議会が決定的に重要なのは、首長は一人なのに対し議会は(住民に選ばれた)多数の議員が、討議を通じて合意形成をはかるところにある。政策立案は、議会の総意となってはじめて意味を持つ。そのためには、異なる多様な利害をより高いパブリックの次元からまとめていく、というプロセスが不可欠になる。異なる利害をそれぞれ代弁するだけなら、あるいは個々の議員が執行部に提言するだけなら、どこまでいっても、一人で全権を握る「大統領的」首長の前での「陳情政治」の延長にすぎないということになる。
 会派マニフェストは、この領域への挑戦である。そしてここから、本来の意味の政党―地域をどうするかについての政策的統一をはかることができる―の初歩的基礎が始まることになる。選挙のたびに、あるいは代表が変わるたびに「チャラ」になるマニフェストなのか、政策的統一を一歩一歩蓄積していくマニフェストなのか。こういうこともリアルになってくる。
 市民の自治能力も問われる。教育改革は分権の大きなテーマである。国の統制、関与を強化するのか、それとも現場に権限と責任を持たせるのか。いじめが大きな問題になっているが、何が「適切」で何が「適切でないか」を霞ヶ関が判断できるだろうか? それこそ現場が一番よくわかるはずであり、またそれが適切であるかないかを判断するのも、霞ヶ関ではなく保護者・地域であろう。学校評議委員制度など、分権を進
  めることで教育を立て直そうとすれば、教師、保護者、地域の「常識」と自治能力が問われることになる。「誰かがやってくれるだろう」とか「教師や役所に文句を言えばいい」で済ませることができない、自治に責任を持たざるをえないステージだ。ここから無責任でいられるのは、根なし草だけである。
 自治分権の確かな一歩を踏み出すことで、脱官僚、脱中央集権そして脱無党派の「三位一体」から、次の新たな政治市場のステージを切り開こう。

市場経済を前提に人生を考える
サイレントマジョリティーの政策ウォンツに、
既成政党はどう反応するのか

 ローカルマニフェスト・自治分権を媒介として、「既存政党に所属する意思はないが、政党政治が機能するために有権者としてやれることがあれば、やる意思はある」「政治に興味はないが、政策の結果は生活に直結するので無関心ではいられない」という層が、新たな政治市場を形成しつつある。このサイレントマジョリティーが見える度合いによって、新しい型の選挙戦を展開できることになる。政策で有権者の顔が見える(ターゲティングできる)ということであり、選挙戦の展開のし

かた、票の取り方が明確に変わる。
 一連の地方選の帰趨を左右しているのは、二十代から四十代の世代、「政治に興味はないが、政策の結果は生活に直結するので無関心ではいられない」ことがリアルな世代であり、(護送船団の終身雇用では概念にすらなかった)市場経済の変化を前提に人生設計を考えるようになった世代である。無党派といっていたのでは、ここのターゲティングはできない。市場経済の変化を前提に人生設計を考えるところからの新たな政治要求―新たな時代のウォンツに基づく社会政策転換の要求―が生まれつつあるからこそ、それと既存政党の「ズレ」が意識されてくる。(一連の閣僚の「失言」と国会の空転はその典型。)
 自治分権と格差問題は、既存政党がサイレントマジョリティーの問題設定にどこまで対応できるのかが試される典型的な課題分野になるだろう。
 自治分権の問題設定が入っていない既存政党が、首長候補選びに迷走するのは当然だ。東京都知事選は典型で、無党派―政党隠しが有利かどうか、がすべての判断基準になっている。黒川紀章氏の立候補表明は、こうした状況に一石を投じるという点で注目に値する。黒川氏の公約は「東京オリンピックの中止」「東京一極集中の是正」「議会の重視」「側近政治は行わない」「中米露との関係重視」など、何をリセットするのかを絞り込んでいる。
  何をリセットするのかを明確にすることなしに、石原都政へのノー一般では選択肢たりえないのは当然であるし、リセットすべきものを鮮明にせずして「転換一般」を語っても、無責任な空文句にしかならない。
 石原都政の継続かリセットか、という争点からしか始まらない以上、そのシングルイシューに対するこうした問題設定を、政党はどう評価することができるのか。氏が日本会議の理事であるかどうか、というようなことは枝葉のことであろう。(そもそも政策で選択する選挙をやろうというのなら、個人の属性より政策を評価すべきであろう。)
 格差問題もサイレントマジョリティーの問題設定、政策ウォンツにどれだけ既存政党が反応できるか、という分野である。大前提となる問題設定は、「社会主義を目指して改革を進めているのではない」(竹中平蔵氏 言論NPO http://www.genron-npo.net/)ということである。つまり「弱者救済」の名の下に、既得権者と「弱者」が連携して、補助金をばらまいたり、官僚統制を強化するような改革の後退を招くな!ということである。市場経済が生活で見えているところ、「自力で稼ぐ」ための知恵を働かせているところは、「政府はどんなに進歩しても楽園をつくる能力はない。相対的には市場の公正さのほうが勝っている」(小林慶一郎 日経12/14)ことを、生活で知っている。
 そのうえで必要な政策分野は、格差是正ではなく貧困対策

である。今日の格差は市場経済の構造変化によるものであり、工業化社会の時代の日本には基本的に生じていなかった「新しい問題」である。「日本は一九九〇年代ごろまでは『やる気があれば貧困にはならないはずだ』という社会でやってきたので、構造的に―つまり努力しても―貧困から抜け出せない人がいるというのは信じられない。それは存在しないことになっている」(山田昌弘氏「日本再生」三三三号)。この制度設計の問題である。
 経済の構造変化から生じるもうひとつの問題は、国民経済の時代には可能だった一国内での均質化―総中流化のメカニズムが働かないこと。つまり高度成長の時代と違って、成長一般によっては今日の貧困問題は解決しない、ということである。もうひとつのファクターは、人口減・高齢社会の到来である。
 そのうえでどういった制度設計が求められるのか。方向としては、イギリス・ブレア政権が行った、「勤労を通じて経済的に自立し貧困から脱出する」「教育により個人の市場対応力を高め、機会の平等を確保する」(森信茂樹/日経「経済教室」1/24)といったことになろう。既存政党の「ズレまくり」とは、ここまでの問題意識がまずズレている―政策ウォンツが見えていないという点と、ここまでの問題意識は見えていないわけではない、という上でのズレという二つの側面がある。
 後者の問題は、こうした問題設定を実行に移すための政治闘争をどれだけ構えられるのか、ということである。ブレア型
  の制度設計のためには、さまざまな控除や特例措置が複雑に絡み合った税制の抜本的改革、あるいは納税者番号制度の導入といった「血を流す」政治闘争が不可欠になる。これをやり抜く闘争性がなければ、前者のズレを正すための党内闘争―政策論争も、波風立てないように、ということになる。
 「改革にはA、B、Cの3ランクがあります。官僚に任せると、できるだけもめ事を少なくして、族議員とも手を握るCランクの改革になる。しかし国民が期待するのはAランクの改革なんです。安倍政権の最大の問題は、波風を立てないようにしていることなんですよ。〜略〜正論を吐くことで正道の政策論議ができる。必ず利害関係者ともめるので、国民の関心も高まり、良い結果を出せば内閣支持率が上がるというメリットがあります。波風を立てると私のようにたたかれますが、たたかれる人が出てきてほしいですね」(竹中平蔵氏 毎日2/27)
 統一地方選と参院選という「政治決戦」を通して、既存政党は、自治分権と格差―貧困問題に対するアジェンダ設定にどこまで答えられるのか。「既存政党に所属する意思はないが、政党政治が機能するために有権者としてやれることがあれば、やる意思はある」「政治に興味はないが、政策の結果は生活に直結するので無関心ではいられない」という有権者がどこまで成熟した政治市場を形成することができるか。「次の政権選択選挙」への基盤整備の道すじは、ここから見えてくるはずである。
 


次の歴史的ステージを準備する
戦略的「仕込み」を始めよう

 「失われた十年」とは、右肩上がり・依存と分配の惰性をリセットできなかったツケであり、小泉改革はようやくそれを曲がりなりにも権力の後景に追いやった。改革阻止圧力は依然としてあるが、いまや主要な問題は、安倍内閣が目指す方向性を明確にできていないところから生じるズレ、政治的脆弱さ、課題設定のあいまいさといったことである。スジ論から言えば、この弱さを脱却する道は、政権選択選挙の洗礼を受けることである。そのためのステージをつくりだしていかなければならない。ローカルマニフェスト、自治分権の組織戦は、その基盤整備の重要な一歩となる。
 すくなくとも以下の三点は、政権選択マニフェストに掲げて、次のステージをどう準備するのかを明確にし、有権者の選択を問うべきであろう。
@財政再建 プライマリーバランスの達成という点では、与野党に本質的な対立はない。問題は税制の制度設計・基本思想や、これと関連して社会保障の制度設計であろう。つまり個人の人生設計にどこまで政府が関わるのか、どこからは自助努力に任せるのかといったところの選択肢を明確にすること。
A自治分権 脱中央集権・脱官僚・脱無党派という「清算」
  のステージから「創造」のステージへ。自治分権の促進という観点から中央政府と地方政府の役割の再定義など、あらゆる分権の課題を再定義する。また非営利的市場の育成、コミュニティーの創造なども関わる。
B東アジア戦略 第二次アーミテージ・レポートに象徴されるように、二〇二〇ないし三〇年頃の東アジアは、現在とはまったく様相を異にするはずだ(中西寛氏の講演 八面よりを参照)。この二十年ほどは東アジアに残る冷戦の残滓(朝鮮半島、中台)をどうマネージするか、ということで戦略が組み立てられてきたが、十五年くらい先には、それとはまったく異相の世界になっている。その意味するところは、「次の歴史的ステージ」を準備するための仕込みを、ここ数年で始めなければ間に合わないということだ。そこが見えている場合と見えていない場合とでは、六者協議の評価もまったく違ってくる。
 東アジアの市場が生活で見えているところには、次の東アジアのステージが体感で理解できる。東アジアの市場が見えていないところに、次の東アジアのステージは見えない。民主主義の外交力は民意、世論によって決せられる。前者のサイレントマジョリティーのところに、外交をめぐる世論の基礎を築くことができるかが、次のステージでのわが国の外交力を左右することになる。
 今年の「政治決戦」を通じて、このようなところに政治論争の舞台を転換していくことが急務である。そのためにも、自治分権の確かな一歩を踏み出そう!