日本再生 338号 2007/7/1発行

パブリックの輿論と乖離しきった永田町の構図に
国民主権の側から緊張感を走らせよう!

〜参院選で与野党逆転が必要なわけ〜

 
「政治は生活や仕事と切り離せない」
「だからこそ政党には果たすべき役割がある」
というフォロワーの台頭が、潮目を変えた。

 政界には、大きな局面転換を意味する「潮目が変わる」という言葉がある。いわゆる「消えた年金納付記録」が明らかになった五月下旬の予算委員会は、まさに「潮目が変わる」出来事だった。松岡農水大臣に関わる「政治とカネ」の問題をなんとか凌いで、民主党の弱点である憲法を争点に参院選を戦う、という安倍自民党の参院選戦略は、その後のダメージコントロールの拙さもあって、一気に崩れることとなった。
 各種の世論調査では、参院選の投票先で自民、民主が拮抗、「参院での与党過半数割れを望む」が半数にのぼっている。もちろんこれは、民主党に追い風が吹いている、という単純な話ではない。潮目を変えたのは、タレント候補を並べたり、付け焼刃的な対策を羅列したりという選挙対策のレベル、あるいはキャッチコピーやコマーシャルなどの選挙戦術のレベルではとらえることのできない民意の台頭にほかならない。言い換えれば、参院選の焦点は、成熟しつつある輿論とそれを真剣につかもうとする側が次のステージを拓くか、政治を消
  費の対象とし、世論(セロン)対策を弄する側が延命を続けるか、という点にあるということだ。
 統一地方選―ローカルマニフェストを通じて、国民主権は理念一般から実践的組織論へと深化するためのとば口が開いた。この基盤のうえに政治構造を組み立てなおすためには、政治に緊張感が必要であり、そのためには参院での与野党逆転が必要だ―そういう輿論が「潮目」を変えた。これは永田町内での既存政党の数合わせとは、そもそも次元の違う話だ。
 朝日新聞が社会経済生産性本部の協力を得て行った政治意識調査によれば、「政治に興味がある」が82パーセントに上る一方で、「政治はドラマである」は18パーセント、「政治は面白くなければならない」は27パーセントにとどまり、62パーセントが「生活や仕事と切り離せないもの」と堅実にとらえている(朝日6/18)。だからこそ、既存政党に対する視線は厳しい。既存政党は「期待されている役割を果たしているか」に対して「そうは思わない」は83パーセントに上る。しかし、政党という存在は「大切だ」が53パーセント。ここにマニフェスト―お願いから約束へ―に期待が集まる背景があり、それが多数派として台頭しつつある。
 マニフェストが従来のような「言い放し」と決定的に違うの

は、マニフェストによる規律化、そのためのマネジメントまでが検証されるという点である。今春の統一地方選で「マニフェストが標準装備になった」ということは、「何を言っているか」「どちらが『いい政策』か」という次元からだけではなく、「実現のためのマネジメント能力、体制、責任意識はあるのか(それが伴わなければ「言い放し」に等しい)」という次元からマニフェストを検証する、という基準が確実に育っていることを意味する。そのことが、この数字の向こう側からもうかがえる。
 さらに「国の政治」と「地方の政治」のどちらに関心があるかについては、「国」が55パーセントに対して「地方」が37パーセント、生活に影響が大きいと思うのは、「国」が52パーセントに対して「地方」が38パーセントとなっている。自治分権のリアリズム―責任意識が、政治を(消費の対象としてではなく)堅実にとらえ、マニフェストに期待し検証しようという民意とパラレルで成熟しつつあることがうかがえる。既存政党のなかでは、ローカルマニフェストに真剣に向き合ってきた度合いに応じて、こうした民意の変化―地殻変動といってもよい―に対する感性がつくられている。
 とくに30代女性では、「地方政治」の影響のほうが大きいが50パーセントと、「国」の43パーセントを上回っていることは象徴的だ。今年から多くの勤労世帯では、国より地方に納める税のほうが多くなり、自治体の質が生活の質に直結するこ
  と、自治体の質は自分たちの選ぶ議員や首長によることが、リアルに見えてきた。この生活実感に合致した課題設定、土俵設定ができる側、少なくともその努力が「見える」側が次のステージを拓く。問題をすりかえたり、小手先の対策を並べたりという世論対策の次元では、その意味すら理解できないだろう。
 今求められている政治とは何か。右肩上がり・依存と分配なら、目先の利益、小さな私欲の窓からでも政治や政策に興味を持つことが出来た。あるいは、自治分権の当事者意識が欠けて「外交」や「憲法」に関心がある、という政治意識からでも利権政治の批判はできた。しかし、いま「政治に興味があり」「生活や仕事と切り離せない」と考えている、そして政党には果たすべき役割があるからこそ、既存政党はそれを果たしていないと感じている人たちにとっての政治は、明らかにそれらとは違う。パブリックの観点からの「あるべき政治」、パブリックの観点からの「あるべき政党」が、生活実感のところでリアリティーを持ち始めてきた。
 だからこそ、既存政党の土俵設定に対して「それは違う」と繰り返し突きつけてきた―これがこの通常国会の姿だったのではないか。パブリックの観点から政治や政党のあり方を問い始めた(世論とは区別される)輿論・民意を、どこまでつかめるのか。それが、参院選の勝敗を決することになる。


自由経済と社会正義は両立する。
だからこそ、社会的公正の観点からルールをつくらねばならず、そのためには熟議が必要なのだ。

―今求められている政治と既成政党との乖離、際立つ与党の審議拒否―

 参院選では「年金」が争点といわれるが、今回は本来の意味でのマニフェスト型争点にはならないことは明らかである。自民党は付け焼刃的な「消えた年金記録」対策以上のものではなく、マニフェストと呼べるレベルではない。民主党も、財源を明示するというマニフェストの基準を満たすものとはいえない。また〇四年参院選、〇五年総選挙マニフェストでの「年金一元化」から説明できるものとはいえないという意味では、マニフェストの一貫性、政策の信頼性にキズをつける結果になっている。
 それでは「マニフェスト選挙は後退した」のか? マニフェストを選挙のツール、スローガンを精緻化したものとしかとらえていなければ、そのように見えるだろう。しかしマニフェストは組織戦のツールとして、直線的にではなく螺旋的に深化してい
  る。日常活動を規律化し、会派活動を規律化し、政局や人事を規律化し、有権者との関係の作り方を規律化し…という実践的組織論として深化し、また検証される段階にはいった。
 だからこそ、「何を言っているか(口先の問題意識、政策意識)」ではなく、「どのように実現しようとしているか」が検証の基準になってくる。政治主導とは、政策意識や思いをどう盛り込むかではなく、実行の体制、マネジメント、責任の裏打ちがどこまであるのか、ということである。「よい政策にはよい政策プロセスが不可欠だ」(竹中平蔵『構造改革の真実〜竹中平蔵大臣日誌』)
 例えば、この国会は当初は「労働国会」と言われていた。急速なグローバル化によって、「働き方」は護送船団・総中流の時代とは大きく変わり、旧来の労働法制体系は現実の問題に対応できていない。そのため新労働法制(主要六法案)が提案された。安倍政権のキーワードは「再チャレンジ」と「ワークライフバランス」であり、民主党は、ワーキングプアや非正規雇用などの「格差」の側面からアプローチしようとした。
 結果はどうか。参院選対策一色となった終盤国会で、社会保険庁「改革」法案(看板を架け替えて、国会のチェックが及ばないところへ)、年金時効撤廃特例法案さらに天下りバンク法案に押されて、新労働法制のコアともいうべき労働契約法

は継続審議となる見通しだ。「働き方」とりわけ「雇用のルール」は、圧倒的多数の国民にとっては人生設計そのものだ。「年金騒動」のあおりを受けて先送りされるということは、与野党ともに(とくに与党)この問題の当事者意識から、はるかに遠いところにいることを意味する。そうであれば「年金」についても、社会保険庁の職務放棄をめぐる責任追及という以上の論戦はできないことになる。
 終身雇用・年功序列の時代には、働くことをめぐる「選択」や「契約」は考える必要もなかった。選択せざるをえない、のは一歩前進であるが、公正なルールがなければ「市場での自由」は「丸裸の自由」になってしまう。働き方も「お任せから契約へ」に変わらなければならないということだ。したがって問われているのは「弱者保護」ではなく、自由主義市場と社会正義を両立させるためのルール(「社会的公正とは何か」ということは近代市民社会の普遍的蓄積とともに、それぞれの社会の歴史的な合意形成の積み重ねに基づいて熟議されるべきもの)であり、そのマネジメントである。(新労働法制をめぐる論点整理については、野川忍先生の講演を次号に掲載します。)
 この問題は労働市場のみならず金融市場においても、また日本的経営や「会社はだれのものか」をめぐっても問われているし、医療や介護、教育といった公的サービスの分野でも問われている。「政治は生活や仕事と切り離せない」からこそ、政党には果たすべき役割がある、と考えている人たちが
  求めている政策論争とは、こういう性質のものだろう。「再チャレンジ」と「ワークライフバランス」というスローガンは間違ってはいない。しかし憲法を争点に設定するというマネジメントは、それから説明できるものとは到底いえない。あるいは「格差反対」一般では、「選択」の意味が分かるからこそ社会的公正を求める、という政治意識をとらえることはできない。パブリックの輿論が求める政治と乖離しきった永田町。それが終盤国会で際立つ与党の審議拒否に帰結している。


輿論の力で、既成政党に緊張感を走らせよう

 「お任せから契約へ」、自由主義市場と社会的公正を両立させるためのルールとマネジメントが実生活で問われはじめたときに、永田町は五十五年体制的構図に逆戻りしかけることとなった。一方でパブリックの観点からの政治意識、民意は、自治分権を媒介として着実に集積され始めている。マニフェスト政治文化は、まさにこうした形で螺旋的に深化している。歴史は直線的にではなく、行きつ戻りつ、螺旋的に進む。
 〇三年統一地方選ではじめて、マニフェストが登場した。それから四年、ローカルマニフェストは首長選挙ではほぼ標準装備となる一方、議会マニフェストの取り組みへと深化、蓄積してきた。この基盤のうえに、パーティマニフェストの構造を組みなおすこと、これが螺旋的深化の方向だ。

 国民主権が機能するということは、端的に言えば、「憲法を国民の意思で変えられる」ということと、「政権のありかたは選挙で有権者が決める」(政権交代が機能する)ということであり、地方自治においては、二元代表制が機能するということだ。(成立過程に禍根を残したが)国民投票法によって、「憲法を国民の意思で変えられる」ということは理念一般ではなく現実の組織論となった。議会マニフェストを媒介に、二元代表制を機能させるとはどういうことか、ということも実践的課題となりつつある。二元代表制の議会を機能させる、という観点からの自治法や公職選挙法の改正も俎上に上ることになるだろう。
 そして「政権のありかたは選挙で有権者が決める」ということは、やはり政権交代のリアリティーと緊張感があってはじめて、瞬間的な実感ではなく実践論となる。そのために、参院選での与野党逆転が必要なのだ。
 「政治や社会は、行きつ戻りつするものだと思う。〜略〜私は小泉さんの政策は評価しないが、ポスト五五年体制的な政治構造を大きく前進させたことは間違いない。今はその反動が出ているのだと思っている。それでも長い目で見れば、これ以上逆行することはないだろうし、参院選で民主党が勝利し、大きな地殻変動が生まれ、構造を組み直すことができれば、すぐにでもまた前進するだろう」(枝野幸男衆院議員「中央公論」七月号)
 パブリックの民意が見えている度合いに応じて、政策で選挙を戦う、政策で政局が動くということが現実の組織論、実践論
  になっていく。右肩上がりの時代には、目先の利益や私欲でも政治のリアリティー、参加意識になった。この枠のマネジメントなら、総中流や縦割り、あるいは「一致団結箱弁当」(経世会・田中派のマネジメント)でよい。しかしパブリックの参加意識は、これではマネジメントできない。
 政策で政治が動く、政策で政権交代が起こるということは、その政策―問題設定がどういう社会層を支持基盤としているかが見え、それをつかむ組織戦をパブリックの観点でマネージできることを意味する。目先の利益や私欲の参加意識なら利害調整でまとめることもできるが、社会性をもった参加意識は「より高次のパブリック」にむけて自発性、創造性を繰り返し高めていくことでしかまとめられない(熟議)。この基盤のうえに、二大政党、政権選択選挙の構造を組み立て直さすこと。その糸口とするためには、参院選での与野党逆転が必要だ。
 公益や社会的公正とは何か、という政治意識。世論とは区別される輿論としての民意。こうしたフォロワーの胎動と、それをまとめるリーダーシップの型を手にすること。ここからマニフェスト型選挙、国民主権の組織論をさらに螺旋的に深化しよう。

【「世論」と「輿論」】従来、「世論」というのは戦時中に「世論(せろん)にまどわず」などと流言飛語か俗論のような言葉として使われていた。これに対して「輿論」は「輿論に基づく民主政治」など建設的なニュアンスがあった。戦後、この区別は奇しくも憲法公布と時を同じくして「世論」に統合されることになる(佐藤卓巳・京都大学大学院准教授 毎日4/6)。