日本再生 357号 2009/2/1発行

危機の時代に対処するリーダーシップは、フォロワーシップの転換からこそ迫り出される。
求む! まともな政府(経世済民で機能する政府、主権者に選ばれた政府)


新しい責任の時代 
フォロワーシップの転換
こそが問われている

 全世界が注目したオバマ大統領の就任式。その演説は、選挙戦の時の高揚感とは打って変わった「重心を低く落とした」ものであった。「百年に一度」といわれる金融危機の「出口」はまだ見えず、撤退を決めたイラクはもとよりアフガンの情勢も、安定とは程遠い。就任演説は国民に、こうしたアメリカが直面する困難な現実に正面から向き合い、「新しい責任の時代」を共有しようと訴えるものであった。
 「今日、私は我々が直面している試練は現実のものだ、と言いたい。試練は数多く、そして深刻なものだ。短期間では解決できない。だが知るべきなのはアメリカはいつか克服するということだ。この日に我々が集ったのは、恐れではなく、希望を選んだためで、争いの代わりに団結を選んだからだ。この日、我々は実行されない約束やささいな不満を終わらせ、これまで使い果たされ、そして政治を長いこと混乱させてきた独断などをやめる。それを宣言するためにやって来た」(毎日ウェブ版1/21)
 オバマへの高い期待がいつまで続くのか、それは分らない。だが、ひとつだけはっきりしていることがある。それは「六
  十年前にはレストランで食事することを許されなかったかもしれない男の息子」を、困難な時代のアメリカ大統領に迫り出したのは(その主力となったのは)、傍観者として何かを期待した人々ではなく、意思を持って自ら「チェンジ」の行動に立ち上がり、コミュニティーに参加するという伝統を新しい形で紡ぎ始めた人々だということだ。
 未曾有の危機に対処する政治の力、それは「主権者によって選ばれた」と言いうる政府のみが発揮できる。オバマというこれまでにない新しいリーダーを生み出したのは、何よりもアメリカ国民のフォロワーシップの転換である。これこそが、「新しい責任の時代」という呼びかけの最大のメッセージにほかならない。(「リーダーはフォロワーに依存すると同時に部分的にはフォロワーによって形成される。…『カリスマ』はフォロワーから与えられることが多い」ジョセフ・ナイ著『リーダーパワー』)
 ひるがえってわが国はどうか。問われているフォロワーシップの転換とは、どういうことか。選挙を逃げまくる総理と官邸がこの国を壊す前に、主権者の力で解散権を行使させるところまで迫り上げていく、そのために何をなすべきかが問われている。解散権は総理大臣の大権だが、それを与えたのはほかならぬ主権者、国民である。総理と官邸が民意に逆行し続けるなら、主権者が与えた大権を主権者の力で行使させようではないか。

 そのためには主権者の意思―空気のような「世論」(セロン)ではなく、意思をもった意見としての「輿論」(ヨロン)を、否応なく見ざるを得ないところまで、あらゆる形で可視化していくことだ。「錦の御旗」(民意)が明確になればなるほど、これに逆行し続けるのか、それとも「江戸城開城」を決断するのか(幕藩体制がなくなっても徳川宗家が存続する道を考える=主権在民の原則で自民党を再生する覚悟)、その選択が問われる。このなかから、政権交代のある民主政に不可欠な「よき敗者」が生まれてくるはずだ。
 それは同時に「勝てば官軍」という驕りではなく、「何が何でも民主党、とは言いません。各政党の言うことをよく聞いて、責任ある選択をしていただければ、この国はよくなります。『誰がやっても同じ』では変わりません」とフォロワーに問う、主権在民の「よき勝者」を迫り出すことでもある。

民意をブロックする総理と官邸がこの国を壊す前に、主権在民の原理で国会を動かそう

 定額給付金を含む第二次補正予算は成立したが、財源の裏づけとなる関連法案の参議院での審議はこれからだ。国民の七割から八割が反対している政策が、国会では多数で通るという事態は、主権在民の原理からは到底説明できないだろう。予算(二次補正、21年度予算)をめぐる攻防は、民意をブロックする総理と官邸に対して、主権在民の原理でいかに
  国会を動かすか、という性質のものとなっている。
 民意の矜持が見えない
「さもしい」人々

 国民の定額給付金への反対に、与党内の一部には、「今は反対している国民も、現金を手にすれば分らんよ」という声もあるという。まさに「錦の御旗」が見えない、見たくない人たちだ。
 多くの国民が定額給付金を「愚策だ」といっているのは、「いくらもらえるか」「トクかソンか」という次元からではない。「同じ二兆円を使うなら、世の中のためにもっと賢い使い方がある」ということであり、「丸投げするなら、地方が独自の判断で使えるようにしてくれ」ということだ。言い換えれば私益ではなく公益のために、賛成か反対か(の二者択一)ではなく優先順位を議論して合意せよ、といっている。
 ある人たちは、これを「民意の矜持」と言う。空気のようなセロンではなく、意思を持った輿論。この「錦の御旗」が迫り出しているからこそ、究極のバラマキ、ポピュリズムにもかかわらず、麻生内閣の支持率はさらに下がるという、かつてないことになる。ところが私益の分捕りあいが政治だと思い込んでいる永田町・霞ヶ関には、この「錦の御旗」がまるで見えない。
 与野党問わず主権在民を行動原則に、有権者の声を直接聞いている国会議員なら、こうした輿論は程度の差はあれ体感できる。「トクかソンか」という次元でしか考えない支持者の中だけを歩いていれば、セロンしか分らない。ここにまで「錦

の御旗」を見ざるをえないようにしていくことだ。
 茨城県医師会の有志は、定額給付金に対する抗議行動として、給付金を県内の民主党候補に寄付することを会員によびかけると発表した。団体名は「茨城から定額給付金で医療を変える会」。小松満代表(県医師会副会長)は記者会見で「(定額給付金の)二兆円を本当に困っている人に使うのが筋。抗議のために自民党の政策で民主党に資金が回る一番皮肉なことをやろうと思った」と話した。
 定額給付金は法律で義務づけられていない「自治事務」(自治体が独自の判断で条例を定めて行う)であるため、実施にあたっては自治体議会の議決が必要となる。国の下請け機関よろしく、「国が決めたから」というだけで議決したのでは、この国に地方分権などないと地方議会自らが宣言するようなものだ。法律の裏づけのない事務に対する住民からの訴訟リスクを負うのは、ほかならぬ自治体である。地方議会は「現金を手にすれば変わる」ような人たちの集まりなのか、健全な民意を反映しうる場なのか。ここからも、セロンではない輿論を可視化していくことが必要だろう。
 定額給付金については、七市議会が撤回を求める意見書を可決したのに対し、否決した市区議会が少なくとも十八議会、
  二市議会は自治体が混乱しないよう配慮を政府に求める意見書を可決している(1/20産経)。国政与党の会派が乗りやすいように、と配慮したのでは中途半端な結果になる。「国の下請けではない、地方政府の時代の議会のあり方」「議会は民意を反映しているのか」と主権在民の原則で正面から問い、それに対する分岐を促進していく、という組織戦が問われている。
 予算を修正する
「あたりまえ」の国会に

 二次補正予算は衆参の議決が異なった結果、両院協議会で「衆院の議決を優先する」ことが確認された。衆参の議決が異なるという意味を、自公と民主の政争としかとらえなければ、「両院協を審議引き延ばしに使うな」というトンチンカンな話になる。衆参の議決が異なるというのは、(原則的には)民意がふたつある、ということだ。このときに「よりよい合意形成ができるか」が民主主義の知恵というものであり、そのためには、政府が出したものを一字一句変えずに通すという官僚内閣制の悪弊を改めることが必要になる。これが今回問われたことだ。
 国会は、政府が出したものを一字一句変えずに通す儀式の

場なのか。予算を修正するのは国会の権能ではないのか。なぜ国民の「七割が反対している給付金を削除する」という修正が、国会でできないのか(そうすれば二次補正はすみやかに成立、実施される)。予算を人質にとって民意をブロックする総理と官邸に対して、(民意に従って)国会としての意思を示すとはどういうことなのか。こうしたことを引き続き、給付金の財源をめぐる予算関連法案や21年度本予算と関連法案、公務員の「渡り」をめぐる審議などで問うていかなければならない。
 問われているのは、民意を反映した国会のあり方だ。二次補正予算の関連法案について、給付金を切り離した修正案が参議院で可決されれば、衆議院は三分の二で原案を再議決するか、参議院の修正に応じるかが問われる。民意を反映して予算を修正するという、あたりまえの国会になるのか、それとも民意に逆行しても政府案を一言一句変えずに押し通すのか。まさに官僚内閣制の惰性ではなく、主権在民の原理で国会を動かすことが問われている。
 この共通の基盤のうえにこそ、「国民が民主党政権を選ぶなら潔く下野して出直す」という「よき敗者」と、「勝てば官軍」を排した(よきフォロワーシップの転換に支えられる)「よき勝者」が生み出される。(政権交代があたりまえの民主政における二大政党への糸口)。
  国民の一票で政権を選ぶ・変える―本格的な政権選択選挙に主権者の「強い一票」を

 来るべき総選挙は、国民が自らの一票で政府を選ぶ・変える、日本で初めての本格的な政権選択選挙となる。政権を選ぶ選挙である以上、有権者には、政権与党にお灸をすえるとか、政権政党にイエスかノーかという次元を越えた選択が求められる。言い換えれば空気のようなセロンではなく、「チェンジ」の意思を明確にする一票、「強い一票」の選択だ。
 オバマの選挙戦を支えたのは「これは、民主か共和かという選挙ではない。忘れられたお年寄りや希望を失った若者までが参加して、自分たちの将来を自分たちで決めるための選挙なのだ」という、フォロワーシップのうねりであった。
 チェンジの方向性は鮮明になりつつある。「この金融危機を、輸出で儲けたカネを政治家と官僚が地方に配分するという旧来の政治経済モデルから脱却する『追い風』に変える『チェンジ』。医療や教育、農業を内需の源泉として捉える『チェンジ』。あるいは、金融資産を有効に活用するための資本・資産市場の改革や、円建て取引の拡充を図るといった『チェンジ』へのチャンスとする。これが政権交代の課題にほかならない。国際政治を動かす主要なテーマにおいてゲームのルールが様変わりしていることが、普通の人にも否応なく見えてきた

からこそ、内政と外交の『チェンジ』の接点が生活実感からも見えるようになっている」(三五六号)。
 この生活実感を、傍観者としての選択ではなく、意思をもった主体者としての選択へと、いかに迫り出していくか。そのフォロワーシップの転換のうねりを、どうつくりだしていくか。この組織戦が見えないと、セロンの動向や永田町の延命のための駆け引きに右往左往することになる。
 「新しい責任の時代」―主権者としての責任意識を問う、そこに向けて啓発したり共感したりする、そういう問答や提起ができるか、まさにそのことが日常的に問われている。バッジをつけた主権者もバッジをつけない主権者も、このことがどこまで行動原則となっているか、この原則どおりに組織―人間関係を作れているか。その蓄積の厚みこそが、政権選択選挙に
  ふさわしい「強い一票」を構造的に生み出す。
 ここから、つぎのような呼びかけが可能になる。
 「我々を余りに長期間、消耗させた使い古しの政治論議はもはや適用されない。今日、我々が問うのは、政府が大きすぎるか小さすぎるかではなく、機能しているかどうかだ。家庭が人並みの収入を得られるよう仕事を見つけ、威厳をもって引退できるよう助けているかどうかだ。答えが『イエス』の施策は継続する。『ノー』の施策は廃止する。公金を預かる我々は、説明責任を果たさなければならない。適切に支出し、悪い習慣を改め、誰からも見えるように業務を行う。それによって初めて、国民と政府の間の重要な信頼を回復できる」(オバマ大統領就任演説)。
 経世済民の基準で機能するまともな政府を!