日本再生 361号 2009/6/1発行

堂々たる政権選択選挙へ
政党は有権者とマニフェストで向き合う時
有権者も「政党のありよう」に向き合う時


間近に迫った政権選択選挙
「民主政における政党」のありように向き合う新たなステージへ

 民主党の代表が交代したことで、昨年九月以来続いてきた解散総選挙をめぐる政局は、いよいよ最終局面を迎えつつある。総選挙の時期は、七月十二日の東京都議会議員選挙の結果にもよるが、どんなに遅くとも任期が満了する秋までには必ず行われる。いよいよ、わが国の政治史上はじめての本格的な政権選択選挙の舞台が整うことになる。
 すなわち今回の選挙は、小選挙区制導入から十五年を経てはじめて、自民、民主の二大政党間での政権選択の構図となる選挙である。〇五年の総選挙(郵政選挙)は、瞬間的には「有権者の一票で政権のあり方が決まる」ことを実感させるものであったが、二大政党間の政権選択ではなく、しかも安倍・福田・麻生という政権たらい回しによって、選挙での有権者の選択は意味のないものとされる結果となった。今回は、総選挙の結果次第では連立の可能性もあるが、二大政党間の政権
  選択という構図が明確になればなるほど、有権者の選択を意味のないものとするような「大連立」や「政界再編」への道は断たれることになる。
 その意味でも、政治不信・政党不信を前提にして「政治を変える」という九〇年代の政界再編や新党ブームの残滓、その基盤を最終的にリセットする舞台である。小選挙区制の導入を柱とする政治改革は、自民党の一党体制に代わって政権交代可能な二大政党間の競争によって、政治を活性化させることを目指したものであった(それによって、冷戦後の変化に対応できる政治を目指した)。二大政党による本格的な政権選択選挙、という構図はこのステージの最終段階を迎えつつあることを示している。同時に、民主政をより成熟させるための次のステージと課題も見え始めている。
 それは「民主政における政党のあり方」である。二大政党間の政権選択という構図が定着してくるにしたがって、民主政に不可欠なツールとしての政党のあり方が問われるようになってくる。世襲制がこれだけ問題になるのも、単なる政治不信からの世論だけではなく、「パブリックの政党とは何か」というところに目線を向け始めた輿論の存在があるからだ。

 世襲批判そのものは以前からもあったし、自民党内でも若手を軸にした党改革の議論のなかでは、候補者選定の改革という形で俎上にも上っていた。しかし執行部や大物議員の一部も「世襲制限」に触れざるをえないのは、「それを言わないと、選挙が危ない」というところまで、世間が厳しくなってきたからである。
 中選挙区の時代には、政党は選挙互助会にほかならなかった。定数五なら、自民党は派閥ごとにそれぞれの業界団体の票を分け合って三議席、公明党や社会党、場合によっては共産党も、それぞれの利害関係団体の票を集めれば一議席はとれた。これが、自民党一党統治を支えてきた五十五年体制である。世襲とはまさに、こうした選挙互助会におけるシステムにほかならない。有権者も、(政党に関係なく)代々の人の名前を書けば安心していられた。
 しかし一人を選ぶ小選挙区では、業界団体の票を集めるだけでは当選できない。推薦状が事務所いっぱいに貼ってあれば安心だ、という選挙ではない。ある問題設定(マニフェスト)から現状を分析し、国民のなかに現に存在している意見、利害の違い(例えば年金の受益と負担)を、討論を通じて説得し、納得を得るということができなければ、「国民の代表」たり
  えないということになる。
 「これは世の中の縮図なんです。世の中にはいろいろな人がいて、『嫌だから別の党』とは言えますが、いやだから国から出て行けというわけにはいかない。その代表である以上、考えが違っても、与野党で分かれても、国から出て行けと言わずにちゃんとルールでやっていくということです」(「日本再生」三六〇号 定例講演会での飯尾潤・政策研究大学院大学教授のコメントより)
 政党とは、こうした民主政を機能させるために不可欠なツールである。だからこそ、マニフェストで約束し、ルールに基いて有権者との信頼関係を築いていくことができなければならない。有権者も、代々の人の名前を書けば安心だ、ということではなく、政党のマニフェストを吟味し、それに合致した候補者なのかどうかを見極めなければならない。ルールに基く信頼社会では、信頼のシグナルが双方向で求められる。
 「民主政における政党のあり方」にかかわるこうした新しい目線から、選挙互助会の旧態依然としたあり方が問われてくる。それが世襲批判の輿論であり、西松献金をめぐって問われた政党のガバナンスのあり方である(民主党に問われたが、同じ目線は自民党にも向けられていることは言うまでも

ない)。
 西松献金問題をきっかけに設置された「政治資金問題第三者委員会」(略称)の有識者懇談会で、ジェラルド・カーティス氏はこう指摘する。
http://www.dai3syaiinkai.com/panel_ex03.html
 「追加であるが、小沢代表の責任について、代議士会を開くと、みなが続投してほしいと言って、一人も反対しない。そういうのは非常に古いやり方であって、そうではなくて、タウンミーティングを開いて、一般の有権者からどうしてあんな代金(大金?)を集める必要があるのか、何に使っているのか、そういった皆が持っている疑問をぶつけてそれに対して答えるべきである。その結果、納得がいくような答えができれば支持は復活するだろうし、納得できない答えしかできないのであればやめるべきである。それくらいのことをしないと党内の代議士が支持してくれているから続投するといっても、民主党が政権をとる可能性はますます遠ざかる」( )は引用者。
 民主政における政党の責任とは、党首に対してではなく有権者に対するものであるはずだ。党内政局で党首(総理候補)が選ばれる時代は終わった。選挙互助会なら個々の議員が(自分の当選のための計算から)好き勝手なことを言う、
  ということでもいい。そうした未熟さに対して、選挙を取り仕切る豪腕にモノを言わせて党内をまとめる、というのも選挙互助会の統率力だろう。しかし、民主政における政党とは選挙互助会ではないし、(同じ意見の)同好の士が集まるサークルでもない。
 民主政において政治家に決定的に必要なのは、ある問題設定から国民に説明し、説得し、納得を得る能力・資質である。「とにかくまとまることが大事だ」では身内は説得できても、有権者とのコミュニケーションはできない。これこそが、「小沢問題」で問われた政党としてのガバナンスにほかならない。
 この一年ほどで、「民主党の現状がどうであれ、日本の民主政のためには政権交代が必要だ」という問題設定は、民意として共有されつつある。その意味では、政権選択選挙にむけた有権者の側の基盤整備は、その第一段階をほぼ終えつつある。二大政党による政権選択選挙が近づいてきた今、民主主義をさらに成熟させるために、「民主政における政党のあり方」を問うという目線、問いの発し方を心得ることが、主権者運動の課題となっている。
 

都議選
「自民か、民主かを選ぶのではない。十年後の東京を選ぶ、私たちの選挙だ」という民意で投票率を10ポイント以上、上げられるか

 現在の情勢では、おそらく総選挙は都議選の後になるだろう。都議選は総選挙の「前哨戦」と位置づけられるだろうが、だからこそ永田町の代理戦争にすりかえてはならない。
 自治体選挙は永田町の代理戦争ではない。まともな自治体選挙であればあるほど、国政に従属せずに、地域の問題設定を自力で行い、有権者が選択に責任を持つということになっている。ここで政党が存在感をもてないのは、選挙互助会のレベルだからだ。タレント選挙になるのは政党がだらしないからだし、マニフェスト選挙になれば「お呼びでない」ことになる。
 その意味で、七月三日告示、十二日投票の都議選は転換点として重要である。自治の最後進地域、東京においても、国政の代理戦争ではなく「自治」の観点からの問題設定で選挙を戦うことができるか。それは「政権交代が必要だ」という世論を、政治不信や「風任せ」の無党派主義に流してしまうのか、自治という根っこを持つ輿論(空気より意見、セロンよりヨロン)へと成熟させていけるのか、ということでもある。
   この都議選は四年前と同じではない。十年目を迎える石原都政の検証という意味でも、またこれから二〇二〇年くらいにかけて急激に進む超高齢社会にどう対応するかという意味でも、かつてないほど争点が明確な選挙となる。
 これはこの十年間の石原都政を都民が総括・検証する選挙である。石原都政十年間の延長に、二〇二〇年の東京を描くのか、それとも「このままでは東京で生き続けることはできない」と、石原都政のチェンジから二〇二〇年の東京を描くのか。それを都民が選択する選挙である。そのためにも都議会主要会派は、会派マニフェストをきちんと提示して選挙を戦うべきである。
 マニフェストの問題設定から、「『自民か、民主か』という選挙ではない。これは十年後の東京を選ぶ、私たちの選挙だ」という民意を、どこまで掘り起こすことができるのか。ここでも有権者への政党としてのメッセージ力が問われる。この力で投票率を前回(44%)よりも10ポイント以上押し上げることができるか。(さいたま市長選、名古屋市長選をはじめ、地方選で旧来の構造を変える決定的なポイントは投票率の上昇。)それが弱ければ「永田町の代理戦争」に流されることになる。代理戦争では、政権交代に向けた本当の地力はつかない。二〇一〇年の参院選、さらには二〇一一年の都知事選

(統一地方選)にむけた(その場限りの選挙互助会とは違った)政党的集積はできない。
 投票率が10ポイント以上上がれば、都議会での自公過半数割れが視野にはいってくる。新銀行東京や築地市場の移転問題などで露呈した、知事の追認機関と化した議会を、都民に開かれた議会、機能する議会へとチェンジする道筋が、ここから見えてくる。(八―九面 増子都議の提起参照)
 そういう議会で、地域の問題をきちんと議論することが政党・会派には求められる。住民の声を聞き、地域の問題設定を自力で行い、討論を通じて問題解決の道筋を探る。そういう地域における政党の存在感が、本格的に問われるような議会にしよう。(国政選挙に系列化された選挙互助会のままなら、「地方政治に政党は要らない」ということになる。)
 その意味からも、都議選を単なる総選挙の前哨戦に流すことなく、都政の争点と東京都民の選択が明確になる選挙にすべきだ。そこから必ずマニフェスト的集積、選挙互助会ではない政党的な集積が見えてくるはずだ。
 きたる総選挙がどういう結果になるにしろ、来年には参院選があり、二〇一一年には統一地方選がある。この期間を、選挙互助会のその場限りの対処に明け暮れて過ごせば、地域はめちゃくちゃになる。介護や医療、子育て、雇用など「不安」だらけであるからこそ、「その場限り」の選挙互助会では「安心」することさえできない。
   ここは右往左往せずに、「民主政における政党」というものに、国政はもとより地方政治においても、しっかりと向き合うべきだろう。そこから紡ぎだされる信頼の絆によってこそ、地域再生のストーリーも見えてくる。そういう自治分権の社会再編と政治再編をリンクさせる、あるいは社会再編の力で政治再編を迫り出していく。地域におけるパブリックの政党と主権者運動の、そうした小さきモデルを集積していこう。


政権交代で
官僚内閣制の惰性を止め 
政官の役割の再定義を



 「小沢問題」で衆議院での審議はほぼスルーしてしまった補正予算案は、まさに「亡国の予算」(大塚耕平参院議員)というべきだ。真水ベースで表面上十五・四兆円、しかしその支出先はといえば、予算全体の約二割に当たる二・九兆円が独立行政法人と公益法人への支出。ここにいったい何人の官僚が天下りしているのか。さらに新設分も含めた五十八基金に約三割、四・六兆円の資金を投入。これは今後数年の間に霞が関の裁量によって使われていく。まさに国民にではなく、霞ヶ関へのバラマキである。

 そもそも今年九月までの任期しかない政権に、数年先の税金の使い方まで委ねた覚えはない! しかも補正予算における国債発行額は十・八兆円、当初予算と合わせると今年度の国債発行は五十兆円を超えると見られている。こんな将来にツケを回す借金を承諾した覚えはない!
 作家の堺屋太一氏は「目玉もなければ鼻筋もない、むじなのような予算です。かねて役人がやりたいと思っていたこと、けれども国民のためにならないので抑えられてきたことが、洗いざらい出てきた」感じだと述べている(週刊朝日5/15)。党首討論で鳩山氏は、役所の施設整備費について、本予算では六千億なのに、補正では二兆八千億、誰のための補正予算なのかと追及した。
 極めつけは「アニメの殿堂」(約二百億円)。「こういう予算が急につくというのもあれですけれども、こういう機会というのは、まず今後五十年は来ないでしょう。百年は来ないかもしれませんね」(青木文化庁長官)と、まさに「百年に一度の危機」に悪乗りして霞ヶ関が焼け太っている、としか言いようがない。
 しかも、「今年度から全廃された生活保護の母子加算手当(約二百億円)を残して、『アニメの殿堂』を来年まで待つという議論がなぜできなかったんですか」と大塚議員が問うと、舛添厚労相は「一億二千五百万人が食っていくために、経済成長戦略をやらなければいけないのです。政策の優先順位とバランスは、政治の決定です。決定が違うなら、キチンと選挙で戦
  いましょう」とまくし立てた。
 まさにしかり。こういう霞ヶ関の惰性を続ける官僚内閣制にストップをかけるのかどうか。それを主権者たる国民が選択することこそ、来る総選挙にほかならない。官僚内閣制の惰性を止められるのは、政権交代である。
 求められているのは、政治家が官僚に替わって行政を行うことではない。官僚内閣制が破綻しているのは、政策形成における複雑な合意形成プロセスを、選挙の洗礼も受けない官僚に丸投げしているからである。政治家が民意に基いて政治的調整と決定を担い、それによって政官の役割を再定義すること、それこそが政治主導の核心である。
 官僚内閣制のなかで蓄積されてきた「政権運営」の経験では、これはできない。この転換は、政権交代によってのみ可能となる。そこから官僚の本来の役割、公僕としてのありようも再定義されうる。
 もうひとつは、やはり「百年に一度」のパラダイムチェンジへの対応である。どこの国も、今回の世界経済危機への対応は焦眉の急だが、その向き合い方は「これを機に国の構造変化を促す」というものである。中国は巨額財政出動で沿岸部と内陸部の格差是正や、産業の高度化などを進めようとしている。危機の震源地である米国も「グリーン・ニューディール」に象徴されるように、新たな国家ビジョンを示しながら、目の前の不況と闘っている。

 こうした構造転換へと舵を切るためにも、官僚内閣制の惰性―霞ヶ関の垂れ流しにストップをかけなければならない。少子高齢社会、環境経済などの構造転換の一歩は、そこからこそ始まる。官僚内閣制の惰性を引きずったままの改良策では、「百年安心」の年金プランや後期高齢者医療などのように、ますます不信と不安を増幅させるだけだ。
 政権交代こそが官僚内閣制の惰性を止める。そこから、「百年に一度」のパラダイムチェンジと向き合う、構造転換のための新たな合意形成プロセスを始めよう。そしてこのなかで、「民主政における政党」のあり方を問うという、新たな主権者の目線を育てていこう。
 「民主政における政党」のあり方を問う、その視点からどのように試行錯誤してきたか、その蓄積がどれだけあるのか。それはこれから始まることではない。この十五年間の政治改革への取り組みの中での、政党間の現実の集積の差として表れている。
   いくつか、その指標を考えてみよう。
 第一。選挙互助会の政治文化・習慣とは違う新たな政治文化を(有権者とともに)どのように確立してきたか、集積してきたか(選挙や日常活動のスタイルなど)。
 第二。官僚内閣制の惰性とは違う議院内閣制の議会、そこにおける議員や議会の職責をどのように実践的に集積しているか(質問・調査能力、政策立案能力、討議―合意形成能力など)。
 第三。選挙互助会では、国政と地方政治は下請け関係に収斂する。自治の原理を踏まえたうえでの、国政における民主政と自治体における民主政の連携について、どこまで実践的な集積があるか。
 「民主政における政党」のあり方を問う、その実践的な教訓が初歩的にせよ、あるのはどちらか。来る総選挙は、その選択でもある。
 堂々たる政権選択選挙へ。